成人の生活において「原初的な自我のリビドー備給」の徴とは何であろうか。フロイトは「ある種の特別な困難が(中略)ナルシシズムを直接研究する方法のうちに横たわっている」と主張するため、主体は病理的な混乱、器質性疾患〔organic disease〕や「男女の愛情生活」〔the erotic life of the sexes〕の助けを借りてアプローチしなければならないだろう(SE14:82, 『全集』13巻、127-128頁。)。一次ナルシシズムの存在とその重要性についてのフロイトの証拠はますます一般的になり、彼の中心的な関心はナルシシズムと正常な自己の創出との間に打ち立てられる関係性に向けられる。第三部でフロイトは「抑圧の心理学」に立ち返り、正常な成人の自我リビドーに何が起こるのかを発見しようとする。「リビード的な欲動〔instinct〕の蠢きは、主体の文化的な考え方や倫理的な考え方と葛藤状態におかれると、病源的な抑圧という運命を経験する(中略)抑圧は、我々が見てきたように、自我から生じる。あるいは正確さを期して自我の自己尊重から生じると言ってもよいかもしれない(SE14:93, 『全集』13巻、141頁)。まったく新しい何かがここで出現し始めている。それは自我の道徳的価値への傾向という考え方である。そしてフロイトは構造上その考え方を解釈しているかのようである。その傾向は二つの用語を示しており、私が引用した段落の終わりで、自我の自己尊重と主体の文化的・倫理的思考は実際の自我とそれを評価し判断する理想との関係性になる。その基礎は周知の通り『自我とエス』に据えられている。
そのような関係はどのようにしてナルシス的なのであろうか。フロイトは抑圧に関する早期の議論のなかで、リビドーの蠢きとそれに対立する文化的・倫理的思考との葛藤を強調している。ところが彼はこの葛藤から
この理想自我はいまや幼少期に実際の自我が享受した自己愛〔self-love〕の目標である。主体のナルシシズムは、幼児の自我のように貴重なあらゆる完全性を保有しているこの新たな理想自我に置き換えられて出現する。リビドーが関係しているところではいつものように、ここでも人間はかつて享受した充足感を断念することができないということが示されている。人間は幼少期のナルシス的な完全性をなしですませようとはせず、成長して他者の忠告や自身の批判的判断の目覚めによって秩序が乱され、もはやあの完全性を保持することができなくなると、人間は自我理想という新たな形式でその完全性の回復を求めるようになるのである。人間が自身の前に理想として投射するものは自分自身の理想であった幼少期の失われたナルシシズムの代理である。(SE14:94, 『全集』13巻、141-142頁)
ここで記述されたナルシシズムの回復とは実際にはナルシシズムの根本的な変換である。フロイトが早期に記述した一次ナルシシズムは遡及的に道徳化される。幼児の自我は本当に「貴重なあらゆる完全性を保有」していたのだろうか、あるいは私が推測したようにその幼児の自我はある種の欲求の再帰〔appetitive reflexiveness〕によって生み出されるのであろうか。幼児のナルシシズムは「自己保存欲動のエゴイズムをリビドーによって補完」するものであり、また別の観点から言うと、心的な統一性の地位に「昇進」した自体性愛、すなわち個体化〔individuation〕という性化の原則の役割を自体性愛が果たしていくプロセスなのである。これは「ナルシシズムの導入に向けて」の第三部で幼児のナルシシズムと同一視〔identify〕される倫理的な自己認識〔self-appreciation〕とはかなり異なっている。その同一視によって、フロイトは自我と理想的な自我の型との関係を一次ナルシシズムの復活と等しいものとみなすという不調和を覆い隠すことができるのだ。
さらには「理想自我」はそれを愛する主体に付随しているわけではない。この「幼少期の失われたナルシシズムの代理」は外から課せられるものであり、実際には主体の快に敵対するものである。「良心が見張り役を務める自我理想の形成を主体に促すものは、声を媒介して伝えられた両親の批判的な影響に由来している。時が経つにつれ、教育者や教師や環境にいる他のあらゆる人、周囲の人といった不特定多数の人々や世論がそれに付け加わる」(SE14: 96, 『全集』13巻、144頁)。この一節の少し手前で、フロイトは検閲する審級〔agency〕を次の方法で導入している。「我々がある特別な心的審級を見出しても驚くことはないであろう。その審級とは、自我理想によるナルシス的満足が確保されるのを見守る任務を果たし、この目的のために実際の自我をたえず注視しその理想によって評価するものである」(SE14:95, 『全集』13巻、143頁)。言い換えれば、ナルシス的満足は義務となってしまい、「上位〔superior〕」の異質な自己から獲得されなければならない。どうして自我理想とフロイトがのちに超自我と呼んだものとの心的境界が曖昧であるとしばしば言及されるのかはたやすく理解できるだろう。超自我の理論は自我理想の現象学なのである。すなわち、それは理想の経験を内面に隔たる罪の意識として記述することである。
一次ナルシシズムのこの逆説的な復活——そこにおいて自我は罪深いために、より優れているある理想を愛することで快を見出すことを命令するのだが——は、一次マゾヒズムの歪曲した反復でもある。セクシュアリティは一次マゾヒズムの反復であるという主張を私は先に述べていた。この種のマゾヒズムは自己処罰〔self-punishment〕と何の関係もない。性的なものの構成としてそれを語ることは、幼児がその心的安定性の破粋を快の源泉として繰り返すことを求めるとりわけ人間の適応機制を記述する一つの試みである。しかしながらナルシシズムに関する論考はマゾヒズムとは完全に異なっており、そこでは自我の自己非難〔self-condemnation〕が快として経験される。「自我理想によるナルシス的満足が確保」されるのを確認することで、フロイトが語るその「特別な審級」は道徳的マゾヒズムというナルシシズムを永続させる。
もちろんある意味で、自我理想の概念は人間のセクシュアリティにおける対象の重要性を肯定し、その一方で一次ナルシシズムは世界と私たちの関係の本質的な反乱分子として考え
しかしフロイトがナルシシズム論の冒頭で大まかに記述した一次ナルシシズムは、我々の愛情生活の関係を開始させ、のちにそれを維持することを助ける。一次ナルシシズムは幼児の自我が破壊〔destoroy〕されるのではなくマゾヒスティックに破粋〔shatter〕されることを可能にする。それはもしかしたら幼児の環境を性愛化する爆撃に対する幼児の最大の性愛的な防衛なのかもしれない。ナルシシズムは
これらすべては昇華とどんな関係があるのだろうか。ナルシシズム論の第三部の二つの極めて興味深い段落のなかで、フロイトは「自我理想の形成」と「欲動の昇華」を区別する重要性を主張している。それはまさに昇華に抗して働く自我理想の要求である。自我理想は性的な蠢きを抑圧へと駆動〔drive〕する。「理想の形成は(中略)抑圧を援護する最も強力な機能」である。その結果、それらの蠢きはその原初的な形態において無意識のなかで昇華されないままである。他方、昇華は「出口なのであり、抑圧を