セミネール14巻『ファンタスムの論理』第七講(抜粋)

S14:136

 フロイトが導入したありうる真理の保存についての思考には、技法的公正さがあるのですが、まったく救済がありません。その思考はこの粗野なルアーやそれが示す法外な誤用から距離を取るのです。そこには逆の教育として、ある種の幻想——それは精神分析的経験であるものにまっすぐ視線を投げかける人々にはとりわけ手に負えないのですが——による、補足captureの決然とした使用があります。〈他者〉をその唯一の地位——それは価値があり、パロールの場ですが——のなかに立て直すことは、必要な出発点であり、そこから我々の分析的経験におけるあらゆるものがその正しい場を取ることができるのです。

 パロールの場として〈他者〉を定義することは、〈他者〉が、主張が正直なものとして提起される場にほかならないことを意味しています。それは同時に、〈他者〉はその他の種類の実存existenceをもたないということをも意味しています。しかし、そのように言うことは、この真理を位置付けるために〈他者〉に訴えかけることでさえあり、私が話すたびにそれを再び出現させることなのです。こういうわけで、〈他者〉はいかなる種類の実存ももたないということを、私は言うことはできないが、書くことはできるのです。そしてこういうわけで、S、斜線を引かれたAのシニフィアン、S(A)をこのネットワークの結び目の点のひとつを構成するものとして私は書くのです。そして、この結び目の点のまわりにあらゆる欲望の弁証法が分節されるのです——言表と言表行為のあいだの隔たりからその弁証法が生じる限りにおいて。

 S(A)というこのエクリチュールが我々の思考にとって本質的な基軸の役割を果たすと言う主張において、いかなる不足も、また何かよくわからない無根拠な身振りへと還元するいかなるものもないのです。実際、数学的真理と呼ばれるものは大文字の〈他者〉を頼みの綱とするより他に基盤をもたないのです——〈他者〉を参照して、私がそこで操るものに*1関する我々の最初の慣習conventionのシーニュがそこに書き込まれているのを見てとるようにと、私が話しかけている人々が頼み込まれる限りにおいて。

 しかしながら、その職能の専門家であるバートランド・ラッセル氏は、数学によって我々が話していることについて我々は知らないし、我々が言っていることが真であるかも知らないということを、的確な用語で思い切って表明することさえしています。実際のところ、なぜでしょうか?ただ単純に、ある種の領野では、いくつかのシーニュの限定された使用に呼応して、私は話したことで、私が言ったことを書くことや断言することが可能になるというのは明白です。〈他者〉を頼みの綱とするより他にありません。

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 数学的推論のたびごとに、私はディスクールによって私が分節するものと確立されたものとして私が書き込むものとのあいだの往復運動をすることができないのならば、それは数学的真理と呼ばれるもののいかなる可能な前進でもないのです。それは数学で証明démonstrationと呼ばれるもの本質全体であり、〈他者〉を頼みの綱とすることはまさしくそれと同一の秩序なのです。

 思考のすべての効果のなかで、〈他者〉を頼みの綱とすることは完全に規定的なものです。デカルト的な「我思うJe pense」から結論づけられる「我在りJe suis」は、〈他者〉を免れていないのみならず、〈他者〉を根拠としているのです。それ(=我在り)が、この〈他者〉を神の本質の水準に位置付けるように強いられる前にすらこのことは行われているのです。ただ対話者から「故に我在りdonc Je suis」を獲得するためにだけ、この〈他者〉は直接的に呼び出されるのです。デカルトが彼のディスクールのために必然的に参照し身を置くのは、この〈他者〉であり、パロールの場であるのです。デカルトディスクールはあなた方の前で為しつつある私であるものを為すことに同意を求める、すなわち私に懐疑するよう説き勧めるのです。しかしながら、あなた方は我在りを否定しないことに疑念を覚えるのです。この段階からすでにこの論証は存在論であるのです。

 デカルトの推論が聖アンセルムスの論証の鋭利さはもっていないとしても、すなわちより簡素なものであるとしても、しかしながらある帰結を伴わないわけではありません。その帰結とは、シニフィアンによって、〈他者〉はパロールの場に他ならないということを、書かなければならないことから結果として生じる帰結なのです。

 我々はそこに到達して行っているのです。

 

2

 私はこのバカンスのあいだに聖アンセルムスのある章を参照するようにあなた方にお願いしておきました。そのことがいい加減なままにならないように、不当に価値下げされたこの有名な論証がどんな性質のものであるか、あなた方にもう一度話しましょう。その論証は、〈他者〉の機能にあらゆる起伏をを与えるためになされたのです。

S14:138

 その論証は、いかなる方法によっても、様々な手引書が言っていることに反して、そこで言われているような、最も完全なる本質は実存existenceを示すであろう、ということをもたらさないのです。

 第二章の「理解を探求する信仰Fides quaerens intellectum」を見てください。それは、聖書に従って「その核心において神はいない」と言っていた「狂人 l’insensé」に向けた議論で構成されています。議論は狂人におおよそ次のように言うことで構成されています。「狂人よ、すべてはあなたが神と呼ぶものに依存している。あなたが最も完全な存在を神と呼ぶのが明白であるために、あなたはあなたが言っていることを知らない。私、聖アンセルムスが知っているのは、最も完全な存在について観念はこの存在êtreが実在existerするための観念として実在する、というのでは十分でないということだ。しかしもしあなたが言っているようなこの存在は実在しないというこの観念を持つ権利が自分にあると考えるのならば、あなたはどんな人になるのでしょうか、もし偶然にもそれが実在するのだとしたら?最も完全な存在から作り上げたあなたの観念は不適切な観念である。なぜなら、それはこの存在は実在することが可能であるという観念から切り離されているからだ。それ[=この存在]が実在のものであるという観念において、それ[=この存在]はその実在を示さない観念において実在しないということよりも完全なものである」。

 要するに、これはある種の批判的な観点による、思考について何らかのものを分節している者の思考の無力さ、効力のなさの論証なのです。それは彼は自分が言っていることを知らないということを自分自身に示しているのです。だから検討すべきものはよそにあるのです。それはこの〈他者〉の地位の水準にあるのです。そこでは、パロールの領野である何かが分節されるたびごとに、私は自分自身を確立するより他にすることができないのです。

 この〈他者〉を——最近私の友達の一人がそう書いていたように——誰も信じません。我々の時代には、最も信心深い方々もリベルタンたち——もしこの用語がいまだにある意味をもつのならばですが——もすべての人は無神論者なのです。哲学的に、この〈他者〉のなんらかの実在の形式formeに立脚するあらゆるものに我慢ならないのです。「我思う」に続く「我在り」の射程は、この「我思う」が意味をなしていることにとどまるのです——しかし、どんな非-意味も意味をなすというのとまさに同じ仕方で。

 私がすでにあなた方に教えたように、あなた方が分節するあらゆるものは、ある種の文法的形式が維持されてさえいれば——私は「色無き緑の考えcolorless green ideas」に立ち戻る必要があるでしょうか——、文法的形式がただ単にあるものはすべて、意味をなすのです。これが単に意味していることは、そこから出発して、私はもはやそれ以上遠くに行くことはできないということです。言い換えると、論理的射程の厳密な考慮は、ランガージュのあらゆる作用を含んでいるのですが、基本的な効果であるものや確かに疎外であるもののなかに明確に現れるのです。それは我々が〈他者〉を信頼しているということを意味しているのではまったくありません。我々は反対に〈他者〉を頼みの綱とすることに基づいているあらゆるものの失効に気づくのです。

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 そこでは数学的推論の流れ、数学的帰納法を作り上げるものしか存続することができないのです。それは次のような形の論証です。もし整数nにおいて真である何かしらの事柄がn+1においても真であることを我々が明らかにすることができるのだとしたら、整数の全体について同様のことが真であると主張するためにはn+1にとってどうなっているかを知るだけで十分なのです*2。それがなんなのでしょう?それはそれ自体では真理の性質についてのいかなる帰結も伴いません——バートランド・ラッセルの見解、すなわちそれが真であるか我々は知らないということから私がピン留めした帰結を除いては。

 我々にとって、しかしながらこの帰結の背後に隠されている何らかのものが我々に真理を打ち明けるに至るのとは事情は全く違うのです。本質的なものを前にしてたじろぐ場を我々はもっていません。それは思考の地位が、〈他者〉の崩壊として疎外が実現される限りにおいて、構成される場であり、それは長方形の左上における空白の領域のなかで、「私は考えない」——それはこの主張において誇り高いfierだけでなく華々しいglorieuxものであるのですが——から分節される「私」の地位に起因するものから構成されるのです。そうすることによって、それを補うものは私がça、すなわちフロイト学派のエスとして示すものです。私はそれを補完するものとして前回構成しましたが、それは疎外から落ちた部分——すなわち消失としての〈他者〉の場——から「私は考えない」に至ります。そこに残っているものは、pas-jeであり、私が文法的構造として示したものです。

S14:140

 このようにしてそのことを思いついたのは確かにフロイト学派の特権ではありません。『論理哲学論考』を読んでください。論理実証主義と呼ばれる学派全体が最も無味乾燥としており最も凡庸な一連の反哲学的考察を我々の耳に投げかけるからといって、ヴィトゲンシュタイン氏の歩みはまったくないと信じてはいけません。論理的考察——それは主体のあらゆる実存を必要としないのですが——の結果として生じるものを構成する試みは、あらゆる細部まで追いかけるに値するものであり、私はあなた方にそれを読むことを勧めます。

 我々フロイト学派にとっては、反対に、ランガージュの文法的構造が提示するのはまったく別のものです。そんなわけで、フロイトが欲動を分節したいとき、この文法的構造を通してしかそれをすることができません。その文法的構造は完全で整序されたその領域をフロイトが欲動について話すとき実際に支配的になるものに与えるただひとつのものなのです。私が言っているのは、欲動そのものに関して機能しているただ二つの例、すなわち窃視的な欲動とサドマゾヒズム的な欲動を構成することについてであります。

 「私は見たいJe veux voir」が支配的な機能をとる——どこからそしてなぜ私は見つめられているのか知るという問題は開かれたままとなっています——ことができるのはランガージュの世界においてのみなのです。前回の途中に指摘したように、「子供が叩かれる」が中心的な価値をもっているのは、ランガージュの世界においてのみなのです。誰がそれを支えているのか、すなわち誰によってそれは行っているのかと言う疑問を行為の主体が生じさせるのは、ランガージュの世界においてのみなのです。

 間違いなく、このような構造に関連するものついて言われることは何もない。そこでは、我々の経験が明確にしていることは、しかしながら、欲望の機能にその法を与えるのは、このような構造であって、どれか分からない[精神]分析の会合の舞台裏をうろついているもの、すなわち誰もがそのようなものとして定義することが不可能であるような性器的と言われる欲動ではないのだ、ということなのです。この構造が構成される文法的分節化を反復すること、すなわちそれに基づいている文のなかで主体がそこに住まうのとは別の方法で推論されるものを提示する以外には、それについて言われるものは何もないのである。我々が実際に耳にするもの、すなわち告訴のなかの主体以外には、それについて言われるものは何もないのである。

*1:Cormac Gallagher版においては、私が操るものce que je manipuleは数学の使用を指している。”as regards what is involved in what I manipulate in mathematics, which …”(CG:61)。

*2:Cormac Gallagher版においては、「nについて真であることがn―1についても真であることを証明できるのであれば、同じことが整数の級数全体についても正しいと断言するためには、n=1のときに何が関係しているかを知っていれば十分なのですif we can prove that something that is true for n is also true for n-1, it is enough for us to know what is involved when n=1 in order to affirm that the same thing is true for the whole series of whole numbers」(CG:62)。