レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(3/5)

 一見、最初は無関係に見える論考を議論することから私はこの疑問に取り掛かりたい。文化活動の非特異的な性化の考え方を追及することに対してフロイトが及び腰であることは、彼の初期の性的な快の理論に対するより決定的な拒否と関連して理解されるべきである。そしてその拒否は、間接的であるが不可逆的に彼のナルシシズムに関する思索と自我の構成によって生じた。フロイトは、1914年の「ナルシシズムの導入に向けて」という論考の冒頭で、ある種のナルシシズムは「倒錯ではなくあらゆる生命体にもある程度は備わっていると正当にも認められるであろう自己保存欲動のエゴイズムをリビドーによって補完するものである」と論じている。それゆえ「自我に対する原初的なリビドー備給」あるいは「一次的で正常なナルシシズム」があるだろう(SE14: 73-75, 『全集』13巻、118-120頁)。ある面では、精神分析の歴史におけるランドマークと考えられるこの新たな概念は、フロイトのかなり古い思想に遡る。1905年の『性理論のための三篇』のなかで、セクシュアリティは自体性愛的に開始されるとフロイトは主張している。セクシュアリティは対象関係(母親の乳房に対する幼児の関係)の始まりから生じるのかもしれないが、フロイトが提起するのは、とりわけその関係の性的な性質は対象に対する無関心を示唆しているということである。セクシュアリティの起源において、乳房は温かいミルクが唇を通って消化管に流れ込む刺激によって引き起こされる快とは無関係である。我々は、フロイトが忠告するように、自分の思考のうちに存在する欲動と対象との結びつきを緩めるようにしなければならない(SE7: 148, 『全集』6巻、188頁)。

 ナルシシズムに関する論考のかなり序盤で、フロイト自身もこれらの指摘が指し示す疑問について自問する。「我々がいま述べたナルシシズムは、リビドーの早期状態として記述した自体性愛とどのような関係であるのだろう」。その回答は部分と全体の違いと関係がある。「自我に匹敵する統一体は最初から個人のうちに存在するはずがない、と我々は想定せねばならない。自我は発展されねばならない。しかし自体性愛的な欲動は最初から存在している。したがって、ナルシシズムが生じるためには、自体性愛に何かあるもの、ある新たな心的作用が付け加えられねばならない」(SE14: 76-77, 『全集』13巻、121頁)。これは自我と性欲動が別々の道で発展することを示しているように見える・・・・・・。我々はまず自我によって形成された心的統一体をともなわない自体性愛の状態であるだろう。そして何かある別の活動が主体のうちに生じて、愛されうる自我が構成されるのだろう。しかし、フロイトの言い回しにはある種の曖昧さがみとめられる。(ナルシシズムが存在するためには)「自我は発展されねばならない」と断言しながら、フロイトは「ある新たな心的作用」が自体性愛に付け加えられねばならないと詳述する。これは自我——それはここでは詳述されないが発達の過程によって構成されるものである——がナルシシズムの必要条件であると主張するのとは決して同じことではない。この短い節の最後の文はという可能性を提起している*1

 我々はここで『性理論のための三篇』においてフロイトが性的な快を快感—不快〔pleasurable-unpleasurable〕の緊張と関連させていることに立ち帰るべきである。その快はフロイトがもちろん性器的セクシュアリティ〔genital sexuality〕と関連させる緊張放出の快とは大きく異なっている。『性理論のための三篇』でフロイトにとって最も悩ましい問題——それは『フロイト的身体』で私が長々と述べた問題であるが——は、主に性器的なもの〔genitality〕と同一視されるような欲望とは異なり、「満足」の消滅を求めるのではないある種の欲望を説明することである。セクシュアリティの快感—不快の緊張、すなわち自己破粋〔self-shattering〕の興奮という痛みは、それだけでなく持続され、再現され、さらには増幅されることをも目指すのである。人間主体は原初的にセクシュアリティの状態に破粋される・・・・・・・・・のである。『性理論のための三篇』のなかでフロイトはマゾヒスティックに享楽される心的平衡状態の擾乱という性的興奮の定義に向かったり退いたりを同時にしている。少なくともそれが構成される様式においてセクシュアリティマゾヒズムトートロジーなのかもしれない。

 ナルシシズムの概念はその定義を拡大したものだと考えられる。それはセクシュアリティの内在的に唯我論的な性質、また対象や器官特性〔organ specificity〕に対する相関的無関心〔correlative indifference〕のようなものであり、自体性愛の発展によって可能になる。そこでは快の源泉と、したがって欲望の対象はまさに動揺・・〔ébranlement〕あるいは自己破粋の経験になる。この経験を繰り返す要求は原初的昇華として、対象に固着した活動から別の「高度な」目標への性欲動〔instinct〕の最初の屈折として考えられる。「高度な」とはここではしかしながら償い〔reparation〕や修復〔restituition〕の含意はまったくない。そうではなくそれは分裂した対象から全体性への根源的かつ非常に重大な運動、自己再帰性〔self-reflexiveness〕を形成する段階で生じる運動を意味している。それは意識のうちで引き起こされるある種の分割であり、逆説的にも同時に最初の自己統合〔self-integration〕の経験でもある分割のようなものである。この自己再帰の運動のなかで快楽的に破粋された意識はその欲望の対象に気づくようになる。性愛エロース化された意識の活動を繰り返すことは新たな目標となり、その目標はある特定の活動(母親の乳房を吸うことや糞便を溜めておくことのようなもの)を繰り返すという目標に取って代わる。

 原初的な昇華はあらゆる性的欲望を開始させる様式として考えることもできる。その性的欲望が純粋かつ抽象的に目標とするのは、快楽的で苦痛な反響する緊張自体を繰り返すことであり、その緊張を最初に生産したかもしれない行為を繰り返すことではない。おそらくこのような推測において昇華理論を基礎付けることではじめて、昇華のプロセスと症状や反動形成のプロセスとの間の区別を保証することができる。というのも原初的昇華のエネルギーは定義上非固着的なエネルギーであるからだ。欲望の対象はいかなる対象関係の享楽・・〔jouissance〕においても無対象であることを示しているだろう。その結果、もちろん昇華されたエネルギーはそれ自身特定の自我関心や諸活動に結びつけられる。しかしそのような昇華の理論的枠組みは、性的興奮をそれが依存している事態〔occasion〕から蒸留する企図である。昇華はただ二次的に——さらに言ってそれは必然的ですらないのだが——高尚なものにする、あるいは崇高〔sublime〕なものにする。もっとも重大なのは、昇華は事態〔occasion〕を焼尽することであり、少なくともなのである。昇華は性的なものの超越などでは決してなく、不純なきセクシュアリティに基礎付けられている。昇華の概念はしたがって非固着的な性的エネルギーの運命を単に記述していたのではなく、おそらく特に芸術のようなある種の文化活動におけるそのような運動を記述していたのである。それは文化活動の物質性をある程度溶解し、その諸形式と自己同一性を曖昧にすることで純粋な興奮の経験を一瞬の間可能にする。

 昇華されたエネルギーは本質的に非参照的〔nonreferential〕である。それは単に昇華されたエネルギーが抑圧を免れ、それゆえ古い目標や対象の代理を見出そうとする衝動が最小限の状態で新たな目標や対象に結び付けられるという理由で非参照的なだけでなく、そのエネルギーがもともと参照のない快によって動機付けられているという理由で非参照的なのである。あらゆる昇華が発現するモデルはそれ自身を性化する潜在力を追求する意識にある。それはまるで内省を通してセクシュアリティを開始する展望に魅了〔fascinate〕されてしまうようなものであるため、特定の目標や対象からまぬがれているわけではない*2。私が提起したいのは、それは「ナルシシズムが生じるために(中略)自体性愛に付け加え」られた魅力〔fascination〕だということである。フロイトが一次ナルシシズムと呼ぶものを作り出す「新たな心的作用」は自体性愛の昇華である。今や我々は理解できるのだが、最初のナルシス的な愛は必然的にマゾヒズム的なものなのである。後の二次的なマゾヒズムが苦しめられ(汚染される)罪悪感のような道徳的構成要素を完全に欠いているので、一次的でマゾヒスト的な欲望は単に純粋な動揺・・という恍惚の苦しみを繰り返すことを求めるであろう。。自我はその起源において、それ自身の解体を見越した快によって必要とされた情熱的な結論の一種にすぎないだろう。精神分析では最初の自我は一つの性愛エロース的な自我であり、それは性愛エロースの引き受け〔erotic assumption〕によって構成されたのである*3

*1:(原注)ラプランシュは私がここで展開した考えと一致するようなものを提示しているように思われる。彼は1914年のナルシシズム論におけるフロイトのテーゼを要約するなかでこう書いている。「自我へのリビドー備給は人間の自我の構成そのものから切り離すことができない」Jean Laplanche, Vie et mort en psychanalyse (Paris: Flammarion, 1970), p. 116、ジャン・ラプランシュ『精神分析における生と死』十川幸司、堀川聡司、佐藤朋子訳、金剛出版、2018年、132頁。

*2:(原注)「まるで〜ように」と私がここで言葉を和らげるのは、「魅了される〔fascinated〕」や「内省〔self-reflection〕」といった用語はこうした意識を記述するには現象学的に不正確であらねばならないということを指し示すためにである——しかしながら我々とフロイトのメタサイコロジー的思索は意識の原始的な状態におけるある種の持続性を想定しているのであるが。そのような状態ははるかに発展した精神構造における不適切な複製物から推察される。ナルシシズムの論考で、その「証拠」は透徹して思弁的な主張に先立つのではなく、思弁的な主張の後で述べられる。まさにこの順序が強調しているのは厳密に言うと証拠がないことに対して膨大な証拠があるというパラドックスである。

*3:(原注)コフートセクシュアリティと自己〔self〕の関係の全く違った見方を示している。彼にとって——これは欲動を重視するフロイト派の側からの強い抵抗を導くことになるのだが——早期の発達の「核心」〔bedrock〕は去勢不安にあるのではなく、むしろ中核的自己〔nuclear self〕に対する脅威にある。性的なものは自己-形成〔self-formation〕や自己-確証〔self-confirmation〕に対して本質的に二次的なものである。フロイトが欲動の運命〔instinctual vicissitude〕と呼んだものは、コフートにとって基本的に[原書ではesentiallyとされているがessentiallyの誤植か]自己の扱われ方に対する反応・・であり、それは自己が「鏡映する自己-対象」〔mirroring self-object〕によって裏付けられているかどうかに関わらない。非病理的なセクシュアリティは身体的自己の感覚を「固める」〔firming up〕ことである。これはもちろん自我形成の構成としてのセクシュアリティというこの章で主張された考え方とは対立している。Heinz Kohut, The Restoration ofthe Self(New York: International Universities Press, 1977)〔邦訳:ハインツ・コフート『自己の修復』本城秀次、笠原嘉監訳、みすず書房、1995年〕を参照せよ。
 このような考えはひょっとすると一次ナルシシズムと一次的な対象備給〔object investment〕が同時に起こるというカーンバーグのテーゼに近いのかもしれない。彼は一次的で未分化の自己-対象の表象を仮定しており、それゆえナルシシズムと対象備給は同時に発展する。しかしこれはカーンバーグが指摘するように、コフートの理論とも古典的な思想とも異なっている。Otto F. Kemberg, Borderline Con­ ditions and Pathological Narcissism (New York: Aronson, 1975)、とりわけ第十章を参照せよ。カーンバーグの著作に対する興味深い「古典的」な異議はMilton Klein and David Tribich, “Kemberg’s Object-Relations Theory: A Critical Evaluation,” International Journal of Psychoanalysis, 62, part 1 (1981)に見られる。
 ナルシシズムに関するいくつかの価値のある論考についてはNouvelle Revue de psychanalyse, 13 (Spring 1973)の「ナルシシズム」と題された論考を参照せよ。