フィリップ・ファン・オト「象徴界と無意識の優位」試訳(抜粋)

Philippe Van Haute, Against Adaptation: Lacan's Subversion of the Subject, Other Press, 2001, pp. 14-18. 

 ラカンによると、メトニミーのプロセスはシニフィアンが共通で隣接する文脈において互いに連結される仕方と関連している。一般的に言えば、メトニミーは同一対象を他の語で——しかしながらそれは同じ意味上の文脈に属しているのだが——指し示すことであると言うことができる。ラカンが自身の言語理論を体系的な方法で提示している「無意識における文字の審級」において、彼は「30の船」を表す「30の帆」というメトニミーの例をあげている(E:601も見よ)。「30の船」を表現するにあたって、二つの用語は同じ意味上の文脈に属しているという事実に基づいて「船」は「帆」に取って代わられる。「カウチに座ること」という表現において、「カウチに座る」は「精神分析において」を表している。シニフィアンはここでは「カウチ」と「精神分析」が同じ意味上の文脈に属しているという事実に基づいて新たな方法で接続されている。最後に、例えば「私は一つグラスを持っている」という表現はメトニミーであり、「私は一杯のビールを飲んでいる」ということを表している。ここでもまた、シニフィアンが互いに新たな方法で連結されるのを可能にするのは意味上の近接性なのである。したがって同一の指示対象(referent)は一語以上によって意味される(signify)のである。

 したがって、ラカンによればメトニミーにおいてはいかなる新たな意味作用も生じない。もとのシニフィエとメトニミーの表現は相変わらず同じである。なぜならそれを指し示す諸々のシニフィアンはお互いに隣接(contiguity)の関係を通して結び付けられているからである*1。しかしながら、我々はこのことから次のことを結論づけることはしないだろう。それは諸シニフィアンのあいだのメトニミーの連結はランガージュの外部にある現実のなかの連結に見出されるにすぎないのかもしれないということである。諸シニフィアンのあいだのつながりは自律した指示対象(referent)によって支配されているわけではないのである。このようにして、例えば我々が「30の船」を「30の帆」で取って代える(replace)とき、これは我々もまた現実において「30の帆」を見るであろうということを保障しないのである。船は多くの場合ひとつ以上の帆を持つのである。したがって、二つのシニフィアンのあいだのつながりは、シニフィエの自律した現前によって、すなわち我々が見てきたようにシニフィアンの示差的決定によっていずれにせよ不可能にされるものによって、支配されているのではない。シニフィアンが意味する(signify)のは、他の諸シニフィアンとの差異の力によってのみなのである。

 これが示しているのは最終的な審級(instance)においてランガージュにはいかなる実証的な言葉(positive terms)も存在しないということである。すべてのシニフィアンは終わりない連続のなかのある瞬間にすぎず、そのシニフィアンもさらに他の諸シニフィアンによって補われるに違いないであろう。そしてその諸シニフィアンもまた何度もシニフィエを終極的に決定するのに失敗し続けているのである。我々の例にとって、これが意味しているのは、「船」を「帆」で取って代えることは残余なく現実に基づいているのではない、ということである。ラカンによると、したがってメトニミーはランガージュの一般的な特性と関係しており、そのために、すべてのシニフィアンは必然的に他のシニフィアンによって続けられる。この運動に終わりをもたらすことのできる究極的なシニフィアンは存在せず、すべての意味作用の表明は限定されていて、不完全である。それゆえにラカンはメトニミーをランガージュの通時的な次元と結びつけるのである。というのも、メトニミーは原則的には時間のなかで展開するシニフィアンの連結を指し示しているからである*2

 それでは、ラカンはどのようにしてメタファーを理解しているのだろうか。非常に一般的に言って、メタファーは置換(substitution)のプロセスを指し示していて、それによって二つの異種の(heterogeneous)意味上の領域にある二つのシニフィアンは互いに置き換えられる。このようにして、「ジョンは本物のライオンだ」という表現は、そこで「ライオン」のシニフィアンは「勇敢さ」のシニフィアンに取って代わるのであり、メタファーである。伝統的に、メタファー化のこのプロセスはしばしば次のような仕方で理解される。ひとつのシニフィアン(「勇敢さ」)は取り消され、別のシニフィアン(「ライオン」)がその場に置かれる。つまり、二つ目のシニフィアンは消えたシニフィアンシニフィエと結びつけられる。このようにして、この伝統的な見方では、メタファーは実際には本来の表現と同じことをしかしながら別の方法で言っているのである。ラカンはきっぱりとこの考え方を否定する。メタファーは同じことを別の仕方で言っているわけではない。「ジョンはライオンだ」は「ジョンは勇敢だ」以上の何か、それとは他の何かを言っているのである。それはなぜなのか見ていきたい。

 我々が知っているのは、つねにひとつのシニフィアンはあまりにわずかでありシニフィエを終局的に決定することができないために、シニフィエは終着した同一のアイデンティティでは決してない、ということである。それゆえに、シニフィエが二つのシニフィアンのメタファー的な置換の十分な基盤として機能するのは不可能である。メタファーの言葉(我々の例では「ライオン」)はその場において文字通りに使われているであろうシニフィアンに取って代わらない——実際は、シニフィアンの示差的特徴は文字通りの意味の決定を不可能にするのである。結果として、「ジョンはライオンだ」という表現は「ジョンは勇敢だ」という表現に完全に還元されることはできないし、後者の表現は「ジョンはライオンだ」というメタファーの実際の本当の(文字通りの)意味を表現することもできないのである。メタファーは、その結果、本来のものに還元できない新たな意味作用を創造するのである*3

 「無意識における文字の審級」のなかで、ラカンは次のようなメタファーの例をユゴーから提供している。「彼の麦束は欲深くも意地悪くもなかった Sa gerbe n'était pas avare, ni haineuse」(E:506-507)。ここでは「麦束 gerbe」は「ボアズ Boaz」という旧約聖書の「ルツ紀」の農夫を表している。伝統的には、このメタファーは置き換えられた言葉(「ボアズ」)の観点から扱われ、「ボアズ」と「麦束」の意味(meaning)の等価性が探し求められる。しかしながら、ラカンはこの表現を書かれた通りに受け取っている。一見すると、この表現は絶対的に無意味なように思われる。いかなる麦束もまったく感情を見せることはないのだから。この見かけ上の意味の欠如は、しかしながら、シニフィアンにそれらの完全なシニフィアンの力を返上するのである。この仕方において、見かけ上の意味作用の欠如はあるシニフィアンの効果を創造するのであり、そのシニフィアンの効果はどの点においても回復されることのない、すなわちその文字通りの意味作用を与えるであろう別の表現に遡ることのできないものである。「麦束」のシニフィアンを「ボアズ」に取って代わらせようとするものは何もないが、一度この置換が作られると、導出不可能な意味作用が生じる。こうして、メタファーは構成された意味作用——それは前もって与えられたシニフィエのいかなる参照からも独立している——を自律的に乗り越えるシニフィアン(の体系)の能力を指し示し、かつ完全に新しい何かを言っているのである。この最後の点はなぜラカンはメタファーをランガージュの通時的な次元と関連させるのかを明らかにしてくれる*4。メタファーはシニフィアンが互いに結合する方法と関連するのではなく、構成されたあらゆるつながりと意味作用を混乱させるシニフィアン(の体系)の能力と関連しているのである。

 

*1:(原注)この隣接(contiguity)はさまざまな形式をとることができる。部分—全体、原因—結果、内容—容器など。

*2:(原注)「(前略)メタファーとメトニミー、言い換えると、ディスクールのなかに現れるそれぞれ共時的な次元と通時的な次元におけるシニフィアンの置換(substitution)と組み合わせ(combinaison)の効果」(E:799-800)を参照せよ。

*3:(原注)もしいかなるシニフィアンも固定された意味作用——それに基づいてメタファーの置換が説明され認可されるような意味作用——をもたないのならば、したがってラカンにとって、このことがまた意味しているのは、メタファーは、それ自体で根拠となる、別のシニフィアンによるあるひとつのシニフィアン純粋な(sheer)置換として定義づけられる、ということである。

*4:(原注)「(前略)メタファーとメトニミー、言い換えると、ディスクールのなかに現れるそれぞれ共時的な次元と通時的な次元におけるシニフィアンの置換(substitution)と組み合わせ(combinaison)の効果」(E:799-800)。