レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(5/5)

 精神分析はいかにして自我について語るのだろうか。私が思うに、これはフロイトナルシシズム論によって生じた主要な問題であり、その問題に答える方法は昇華の理論に重要な結果をもたらす。ある時には、私が主張したように、フロイトの仕事のなかで昇華は一次ナルシシズムの性愛的自我〔erotic ego〕に基礎付けられていて、また別の時には昇華のモデルは自我理想に対する自我のマゾヒスティックな関係であるように見える。ナルシシズムのこの二つの見解の対立的な状況を議論することで、私は一方が他方に比べて心的現実の記述としてより有効であると主張したいわけではない。「ナルシシズムの導入に向けて」は早期の自我形成の運命に関する記述として読むことができる。フロイトはまず最初に性的興奮の結果による自我の危機について論じているように思われる。その原初的状態において、自我の安定した構造が誕生することは望まれているだろう。そしてフロイトは自我が直面せざるをえない間主観的な危機に対する説明を与える。両親の批判とその代わりとなるものに対処する戦略として、自我はその批判の源泉を内面化し、同一化することになる。この同一化は内的分裂を生ぜしめ、多かれ少なかれ無価値な自我は不法の欲望を抑圧して、検閲官の批判——その賛同者であるナルシス的な愛が今やそれに依存しているのであるが——を抑制〔stiful〕するだけでなく、自我とその理想の間にある裂け目を埋める。フロイトの議論の不合理さは自我の歴史におけるこれら二つの契機の間に打ち立てる連関にある。つまり、理想自我の形成は一次ナルシシズムの満足を回復させる試みのように思われる一方、理想の構成は一次ナルシシズムにより生み出された自我の抑圧的脱性化〔repressive desexualization〕に依拠しているということである。

 「ナルシシズムの導入に向けて」においてどこか混乱しながら理論化されているのは、次の二つの立場の間でのフロイトのためらいである。それは、抑圧されていない性的エネルギーの自我関心〔ego interest〕への備給としての昇華の概念と、それとは全く異なる見解の二つであり、後者では昇華と症状形成や反動形成の境界が曖昧化されている。この最初の見解では、フロイトは昇華はつねにナルシス的に備給されていると提起している。これは自己愛の延長であり、より正確に言えば、これは広範なナルシシズムを含んでいる関心や活動なのである。昇華は決して自己関心〔self-interest〕の超越ではなく、自己享楽〔self-enjoyment〕の洗練された形式なのである。ナルシス的自己において自体性愛が繰り返され、体系化されるのとまさに同じように、一次ナルシシズムは我々の昇華の活動において回復され対象化される。遊び、仕事、芸術、哲学研究や科学研究の快は、それゆえ我々が愛する対象から逸れ、フロイトが主張するように、そこにおいて我々はセクシュアリティが発生した無対象的な享楽〔jouissance〕に戻るという観点から定義されなければならないだろう。

 これは言及したそれらの諸活動が対象関係を含んでいないと言っているわけではない。精神分析的な用語において問題となるのは、むしろそのような関係性があらゆる種類の文化的昇華において我々の関心を動機付け維持する快の特異性を説明できるのかどうかという点である。フロイトの性的興奮の定義において極めて重要な対象からの逸脱は、セクシュアリティの最も親密で秘密の動き、すなわち我々が対象の世界に適応する方法にたびたび熱狂的に注目するなかで精神分析自体が抑圧しようとしてきた動きである。性的な快はナルシス的リビドーの自己目的性〔autelic〕であるのと同様に対象リビドーの自己目的性でもあろう——対象に対する欲望が昇華されていない関係において、対象が最終的には消滅する享楽に達するのならば、対象それ自体は不可欠なままであり、保持されなければならないのではあるが。フロイトが主張するように、もし昇華がナルシス的リビドーに起源があるとするならば、したがって昇華は対象への無関心〔disinterested〕な関係を必然的に暗示することになる。高等な目標という昇華の目標についての一般的な理解は、無関心を理想化することによってではあるが、この観点を裏付ける。私が主張しているのは対象に関する目標の変換——例えば性的欲望から友好関係や利他主義への目標の変換——は性的なものの抑制や超越に依拠しているのではなく、むしろ対象それ自体の変更に依拠しているということである。自己は独我論的にそれ自身で快の源泉や対象となってしまうのである。

 昇華をこの方法で考えていくと、最終的に抑圧されていない性的エネルギーを昇華するというフロイトの論点を強調することになる。欲望の抑圧は、その対象からの解放では決してなく、たとえその対象への偽装された追及であったとしてもその欲望の永続化を強いるのである。昇華において、欲望の対象(リビドー的対象)は非性的な目標を追及する意識にほかならない。これは精神分析イデアリズムというより精神分析的リアリズムと呼んでもいいかもしれない。最も注目すべき文化的獲得や道徳性は性的なものからの分離〔abstraction〕を確かに含んでいる。そしてこれが意味するのは我々の文化的獲得物や倫理的理想に対するある種の文明的無関心〔civilizing indifference〕であり、それなくしては寛容は問題のあるものとなり理想への熱狂が再来する。フロイトが昇華の名の下に試験的に説明しようとする並外れた人間の業績では、性的なものは真正に非性的なものを作り出し、諸関心や諸活動はナルシス的な蒸留物〔distillation〕なのである。

 そのような昇華概念の必然的な帰結は芸術の精神分析的批判〔criticism〕として一般的に認識されていたものの放棄である。芸術家の昇華がうまくいけばいくほど、その作品の(解釈可能な)性的エネルギーの痕跡は少なくなる。自我関心の非特異的な性化もまた、芸術家の「思考」の主要な特徴の優位を想定することによって裏付けられるわけではない。フロイトがこれらの特徴を引き出す主要なモデル、すなわち夢のモデルは、あまりに原初的で私的な精神現象(それはもちろん複雑で難解な形をしているかもしれない)であるために、芸術的な制作において自我関心の性愛化〔erotisize〕を記述する我々の試みには役に立たない。現実の意識は芸術作品において性化されるのだが、それはメロドラマ的で統語論的〔syntactic〕な一次過程の混乱が説明できないような方法でなされる。したがって、その方法は芸術批判に開かれているのだが、それは性愛化された意識のある特殊な様式の記録として徹底的に精神分析的でありながら、しかしまさに精神分析自体はその動揺〔ébranlement〕を記述する言葉をほとんど我々に与えてくれなかったという確信において明確に非精神分析的なものであろう。精神分析の語彙は大方は自分自身の発見を飼い慣らす〔domesticate〕ように指示する。語彙に関していわばある種の禁欲的保留地〔reserve〕を保持しておくことではじめて、我々は文化に対する精神分析的な観点を維持できるのである。

 少なくとも文化研究において、我々の昇華理論はこのようにしてそれが基づいている学問分野を無視する傾向にあるのかもしれない。たとえ私が芸術を読解する方法を誰よりもフロイトが決定しているのだとしても、彼の理論は私にとって、彼の著作における理論的な失敗や衝突の様式、すなわち主張が洗練されるとともに脱定式化〔disformulate〕するプロセスを追跡する経験と比べると重要ではない。フロイトのテクストは頻繁にその理論的一貫性を犠牲にしているが、そのことによって我々はフロイトの理論を読解するという困難な経験の結論として彼の理論を再述することに導かれるはずである。フロイトの著作はこれらの人間のディスクールの混乱の模範的な一例であり、もちろん彼の著作はその混乱を体系的に説明することを試みている——精神分析はそれらの混乱を我々が美学と呼ぶものに決定的なものとして正しくも認識しているのではあるが、いくぶんかナイーブに同一視している。私がたった今言及した理論的な結論は、私が思うに、理論的な位置〔position〕のなかに固定化するべきではなく、芸術作品の前景にある理論的な〔disposition〕として機能すべきである。そしてこれらの気質のなかに、私は進歩の仮面を被った反復を見つける準備〔readiness〕、すなわち対象から逸れること(ナルシシズム論の結論はここに明確である)、そして物語の秩序を信頼しながら同時に拒絶もすることを含めたい。私自身の仕事において、私は、いわゆる精神分析的なアプローチの通常の兆候が批評的な仕事に見られないときでさえ、そのような気質がどれくらい広範囲に批判のなかで機能しうるかを示そうと思っている。最後に、私がこれまでこれまで言ってきたことに部分的に反抗して、これらのあらゆる気質をより認識可能な精神分析のランガージュのなかに一時的に固定化して、芸術においてはナルシシズムマゾヒズムの間の秘密の同一性は表象的な企図〔representational projects〕の転覆的な性愛化として実行されていると言ってみたい。

 しかしながら、我々が見てきたように、フロイトナルシシズム論は文化の分析とはまったく異なったことを指摘している。最終節で提示された昇華理論はそれ自体、抑圧されていない性的エネルギーが備給された自我関心という別の昇華の見解の抑圧的で理想化した昇華である。フロイト思想の歴史、より広く言って精神分析それ自体の歴史は、性的なものの精神分析的な定義の抑圧の歴史である。文化の獲得を発達における混乱の曖昧にも成功した修復的〔reparative〕反復として扱う方が、それらの獲得をマゾヒズム的享楽の伝達不可能で解釈不可能な強度によって持続されたものとして捉えるよりも受け入れやすかったように思われる。人間のセクシュアリティにおける他者への本質的な無関心と呼ばれうるものを恐れて、フロイトは一次ナルシシズムという彼の理論を、ナルシス的な快自体は対象関係の派生物だと思われるように定式化することで、再解釈しようとしている。私はここで、また『フロイト的身体』でも主張してきたのは、フロイトの最も独創的で思弁的な動きは性的なものを間主観性のカテゴリーとして脱構築することであり、他者からの向け変わりでもあり自己の死滅でもあるものとして性的興奮の定義を提示することであった。死滅を懇願すること、すなわち一貫性をなくして破粋された欲望はおそらく精神分析が最も激しく抑圧しようとしてきたものである。しかし生から比類のない死滅への快を除外する衝動によって、その快は道徳的マゾヒズムとして限りなく危なっかしく理想化することへと導かれた。不十分に抑圧され不十分に満足された性的なものの動揺を更新する欲望はこのようにしてそれ自体に嫌悪を向ける〔turn against〕ことでそれ自体を繰り返す。すなわち、自己破粋は怒りに満ちた攻撃性に向かい、自己同一性の興奮した解体は単なる生物学的な死を望むことへと格下げされる。

 最終的に、そして私の出発点に立ち戻ると、フロイト自身が「性格と肛門性愛」での思弁のなかでおそらくそのような変容に最も感受性のある時〔moment〕を突き止めていた。それはまるで拒絶や滞留として性的な快が経験される発達のまさにその時に我々が性的なものを否定する誘惑に最も脆弱であるかのようである。フロイト肛門性格として記述しているもののなかで、我々は拘束されていないセクシュアリティとその残虐な抑圧との間の完全な同一性の独特な布置〔configuration〕をもっているのかもしれない。肛門性[anality]は性的なものと死の親和性を最も緻密に文字通り解釈〔literalize〕しているセクシュアリティの様式である。肛門性において性的興奮の動揺は重度の破壊の幻想へと促進され、ある意味では昇華される。肛門性格特徴は陰性化〔negativize〕された肛門のセクシュアリティであり、その陰性化——個人的で社会的な秩序への衝動の事例としての陰性化——は、修復〔reparation〕として、実際にはほとんど汚染された爆発性〔explosiveness〕への和解〔atonement〕として提示されうる。しかしながら潜在的に残虐な秩序との和解は文字通り歴史的に罰されてきた幻想的な壊滅状態〔devastation〕を繰り返すだろう。肛門性の激しさによって活気づけられた贖罪〔redemption〕の文化は死の文化である。