ジャック・ラカン「女性のセクシュアリティに関する会議に向けた指導的意見」(1-6/10)

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1. 歴史的な導入

 60年にわたる発展のなかで精神分析の経験を考慮してみれば、次のようなことを耳にしても誰も驚きはしないでしょう。それは、精神分析の経験はそれ自体、父によってもたらされた抑制〔répression〕にともなう去勢コンプレクス——それは精神分析の経験の起源における最初の産物であるのですが——を基礎付けるものとして考案されたのにもかかわらず、精神分析の経験は次第にその関心を母に由来するフリュストラシオン〔frustration〕へと向けることになった、それによってこの去勢コンプレクスは十分に解明されることなく、ところがその諸形式は歪められてしまった、というものです。

 情動の欠乏〔carence affective〕という概念は、発達の諸問題を母親の世話〔maternage〕の現実的な欠乏に直接的に結びつけることで、母親の身体をその想像的な領野である空想の弁証法と二重化〔se redoubler〕しているのです。

 ここで問題となっているのは明らかに女性のセクシュアリティを概念として普及することであり、それによって我々はある著しい怠慢〔négligence〕に気づくことができるのです。

2. 主体の定義

 この怠慢は、人々がこの際に注目を促そうとしているまさにその点を示しているのです。それはすなわち女性の部分〔la partie féminine〕です——少なくともある局所的な場所を性交の行為〔l'acte du coït〕で使用する生殖的関係の争点において、この女性の部分という用語がいくらかでも意味をもっているのだとしたら、ですが。

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 あるいは、我々が満足し続けている高尚な生物学の画期的な発見から我々自身を格下げしてしまわないようにするというのならば、女性には、高等生命体のうちにある性的差異〔différenciation sexuelle〕の解剖学的な付属器〔phanère〕によって、いかなるリビドーの道が割り当てられているのでしょうか。

3. 諸事実の検討

 この計画には以下のようなことを最初に検討する必要があります。

  1. 性交の手段と行為を考慮する精神分析の経験のという条件のもとで女性によって証明される諸現象について。それは、これらの諸現象が我々の医学的な出発点である疾病分類学〔nosologie〕の基礎を裏付けるか、または裏付けられない限りにおいて、でありますが。
  2. これらの諸現象が、我々の分析活動が欲望として認識する原動力〔ressort〕に、とりわけそれらの無意識の派生物〔rejeton〕に、従属していることについて。その無意識の派生物は、その行為に関して求心的であれ遠心的であれ、そこから生じる心的エコノミーへの諸効果をともなっており、それらの中でも愛の派生物は別のものとして考えられます——それらの結果が子供へと移行することについては触れませんが。
  3. 当初は解剖学的な重複〔duplication〕と関連しており、次第に「人格学的な」同一化へと移行していった、心的な両性性〔bisexualité〕[の概念]が決して撤回されることのなかった意味〔implication〕について。

4. 欠如の光

 以上のような概要から、ある種の欠如〔éclat〕が見出されるのでありますが、その関心〔intérêt〕は免責〔non-lieu〕によって回避されることはないのです。

  1. 我々はいつも生理学の新たな諸発見(例えば、染色体の性とその遺伝的相関の諸事実、染色体の性のホルモンの性との差異、それらの解剖学的決定における相応の役割、あるいは単純に男性ホルモンのリビドー的特権やさらには月経現象におけるエストロゲン代謝の秩序に関して発見されたこと)の臨床的解釈のこととなると差し控える必要が生じてくるのですが、その諸発見はそれにもかかわらず我々に考える間を与えてくれるのです。それは、それら諸発見がある実践によって無視されてしまっているためであり、その実践において人々はそれらの事例を決定的な科学作用に対するメシア的〔messianique〕な接近に難なく基づかせるのです。

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     ここで保たれている現実的なもの〔réel〕との距離は実際には関連する断絶についての疑問を生じさせるのでしょう。その断絶は、もし身体的なものと精神的なものとの間に連帯〔solidaire〕が築かれるのでないのならば、有機体〔organisme〕と主体〔sujet〕の間に、後者のために情動の評価を破棄する条件を必要とするのです。

  2. 反対に、精神分析のアプローチを起源とするパラドックス、すなわちリビドーの発展におけるファルスの主要な位置〔position-clef〕は、事実〔fait〕において繰り返される執拗さ〔insistance〕のために興味深いものであります。

     ここにおいて、女性におけるファルス期〔phase phallique〕の問題がいまだよりいっそう議論を孕むものであるのです。ですので、1927年から1935年の大騒動〔fait rage〕が生じたのち、それ以来、女性におけるファルス期の問題は暗黙のうちに不分割〔indivision〕のまま放置され、各々の好きなように解釈されることとなったのです。

     この理由を究明することによってこの未決定状態〔suspens〕を解消〔rompre〕することができましょう。
     想像界現実界象徴界というのは、発達が適合する主体の構造におけるファルスの影響〔incidence〕に関係しており、これらは個人の教え〔enseignement〕による用語ではなく、ある特定の著者の文章〔plume〕において概念の横滑り〔glissement〕が注目〔se signaler〕される用語そのものなのです。その横滑りは、それが確認されなかったために、議論の停滞〔panne〕のあとに続いて分析経験の沈滞〔atonie〕を導くことになったのです。

5. 膣器官〔organe vaginal〕の闇〔obsculité〕

 禁忌〔interdit〕の統覚〔apperception〕は、先行するもの〔precédé〕がどれほど曖昧〔oblique〕であったとしても、序幕〔prélude〕の役割を果たすかもしれません。

 それは我々の学問分野*1〔dicipline〕——それはセクシュアリティの観点からこの分野〔champ〕に応答するために、セクシュアリティのあらゆる秘密を白日にもとに晒すのを許可しているように思われるのですが——が、ほとんど熱心とは言い難い生理学が匙を投げた〔donner sa langue au chat〕まさにその点で女性の享楽〔jouissance〕について認識されていることを置き去りにしてきたという事実によって裏づけられるのでしょうか。

 クリトリスの享楽と膣の満足〔vagin〕というありふれた〔trivial〕対立〔opposition〕は多くの主体を心配〔inquiétude〕させる理論によって強化され、またその理論はこの心配を、権利要求〔revendication〕にまでではないとしても、主題〔thème〕にまで持ち上げたのです——だからといってこれらの対立〔antagonisme〕はより的確に解明されたとは言えないのですが。

 このために膣器官の性質は侵されたことのない未知の領域〔ténèbre〕のまま保持されているのです。

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 というのも子宮頸部〔col〕の感度〔sensibilité〕というマッサージ療法〔massothérapique〕の概念や膣の後部内壁〔la paroi postérieure〕に関するnoli tangere〕という外科〔chirugical〕の概念は偶然的な事実によって(おそらく子宮摘出〔hystérectomie〕によって、それだけでなく膣の形成不全〔apalasie〕によっても!)生じたものであるということが明らかであるためです。

 女性〔sexe〕の代表者たちは、彼女たちの声が精神分析家のうちでいかなる音量〔volume〕であったとしても、この刻印〔sceau〕の取り消しのために彼女たちの最善のものを与えてくれたようには思われないのです。

 ルー・アンドレアス=ザロメ夫人が個人的な立場をとっていた直腸〔rectal〕の属領〔dépendance〕の有名な「賃貸借」〔prise à bail〕を別にして、その女性たちは一般的に隠喩〔métaphore〕を用いるにとどまっており、その理想の高さは、一般大衆〔tout-venant〕*2がさほど意図〔intentionnel〕するところのない詩情〔poésie〕によって我々に与えるものよりも好まれるに値するものを何も意味〔signifier〕しないのです。

 女性のセクシュアリティに関する会議はテイレシアース〔Tirésias〕の運命〔sort〕の脅威〔menace〕を我々の上に重くのしかけようとするものではありません*3

6. 想像的コンプレクスと発達の諸問題

 この事態が現実的なものへの接近〔abord〕において科学的な袋小路〔impasse〕を露呈〔trahir〕しているとしても、しかしながら少なくとも会議に集う精神分析家たちから期待できるのは、精神分析の方法〔méthode〕もまさしく同じような袋小路から生まれたことを彼らは忘れていない、ということです。 

 様々な象徴〔symbole〕がここでは想像的〔imaginaire〕な手がかり〔pris〕以外のものをもたないのは、おそらくイマージュ〔image〕がすでに無意識的な象徴体系〔symbolisme〕に従属している、言い換えるとあるコンプレクスに従属しているからでありましょう。これは女性〔chez〕イマージュや象徴は女性〔de〕イマージュや象徴から切り離すことができないということを思い起こすいい機会であります。

 表象〔représentation〕(フロイトがそれは抑圧〔refouler〕されたものだと指摘するとき使用するタームとしてのVorstellung )、女性のセクシュアリティの表象は、抑圧されていようとなかろうと、その利用〔mise en œuvre〕を条件付ける。その遷移〔déplacer〕された出現〔émergence〕(そこで治療者の学説は魅力的な部分を見出すだろう)は、それが自然と洗練されたものだと考えられようと、その動向〔tendance〕の運命〔sort〕を定めるのです。

 思い起こさねばならないのは、ジョーンズが、それ以後のあらゆる貢献のために地上を焼き払ったかのように思われたウィーンの精神分析協会に宛てた意見書〔adresse〕のなかで、クラインの諸概念への純然たる荷担〔ralliement〕を、クラインがそれらを示したときのような完全な荒々しさ〔brutalité〕でもって、表明することしかすでにもはやできなかった、ということです。メラニー・クラインの無頓着〔insouci〕に注意しましょう。それは、彼女は最も早期〔originel〕のエディプス幻想〔fantasme〕を母親の身体〔corps maternel〕に含めており、それら幻想の出所を父の名〔Nom-du-Pére〕によって仮定されている現実〔réalité〕に由来するとしているメラニー・クラインの無頓着〔insouci〕です。

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 これらすべてはフロイトパラドックス、それは自分の性器に対する原初的な無知〔ignorance primaire〕のもとに女性を据えながらも、我々自身の無知の学識のある〔instruit〕告白〔aveu〕によって和らげ〔tempérer〕られもするのですが、そのパラドックスをジョーンズが軽減*4〔réduire〕する試み——自然の本性〔naturel〕の優位〔dominance〕という先入観〔préjugé〕のあるジョーンズのとても活力に溢れた試みであったため、彼はそれを創世記の引用で確証することに喜びを見出しています——の中で到達したものだと考えるとしたら、我々は何を獲得したか分かりません。

 というのも、それは男女の性におけるファルス期の曖昧〔équivoque〕な機能によって女性の性になされた誤り〔tort〕(「女性は生まれたのか、作られたのか?」とジョーンズは書いている)であるので、口唇の攻撃性にまで退行〔reculer〕することでファルスの機能がさらにより曖昧になるとき、女性性〔féminité〕はより明示〔specifier〕される、ということはないように思われます。

 多くの雑音〔bruit〕も、発達の竪琴〔lyre〕に関する次の疑問を調整〔moduler〕するのを許してくれるのならば、実際は無駄ではなくなるでしょう。なぜならそこには音楽があるからです。

  1. 幻想的〔fantastique〕なファルス貪食〔phallophasie〕によって母の身体の乳房〔sein〕から引き出される悪い対象は父の属性〔attribut〕なのでしょうか。
  2. 良い対象の身分〔au rang de〕に持ち上げられ、より利用〔maniable〕しやすく(原文ママ〔sic〕)より満足できる(どういう点で?)乳首〔mamelon〕のように欲望される同じ対象〔même〕において、疑問は明らかになります。それが取り入れ〔emprunter〕られるのは同じ第三者からでしょうか。というのも、それは結合した親〔parent combiné〕という概念を取り入れる〔se parer〕のでは十分でなく、その混淆〔hybride〕が構成されるのはイマージュ〔image〕としてなのか、象徴〔symbole〕としてなのか、我々は未だなお知らなければならないからです。
  3. クリトリスは、その誘惑〔sollicitation〕が自閉的〔autistique〕であろうと、やはり現実的なもの〔réel〕に押し付け〔s'imposer〕られるのであり、いかにしてクリトリスは以前の幻想と比べられるのだろうか。
     クリトリスによって幼い女の子の性器〔sexe〕を器官的な価値下げ〔moins-value〕のしるし〔signe〕のもとに置くことが独立〔indépendamment〕してなされるのだとしたら、増殖〔proliférant〕する重複〔redoublement〕の局面は——そこから様々な幻想が生じてくるのですが——「伝説上」〔légendaire〕の作り話〔fabulation〕に属することによって、それらの幻想を疑わしいもの〔suspect〕にするのです。
     クリトリスが(もまた)悪い対象や良い対象に結びつくのだとしたら、あらゆる欲望の対象の到来におけるファルスの等価性〔équivalence〕の機能にある理論が必要でありましょう。このことに対して、ファルスの「部分的」〔partiel〕な特徴について言及するだけでは十分でないのです。

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  4. いずれにせよ、フロイトのアプローチが導入した構造の問題が再び見出されるのです。つまり、ファルスを象徴化〔symboliser〕する剥奪〔privation〕や存在の欠如〔manque à être〕の関係は、要求〔demande〕の特殊〔particulier〕で全体的〔global〕なあらゆるフリュストラシオン〔frustration〕を生じさせる持たないこと〔manque à avoir〕から派生〔dérivation〕することで確立されるのです。そして、その代用品——最終的には、クリトリスは競争に屈する前にそこに身を置くのですが——に基づいて、欲望〔désir〕の領野は、他のあらゆる欲求〔besoin〕が引き入れ〔s'engager〕られる性的な隠喩の回復〔récupération〕を通して、新たな対象——その最初の系列〔au premier rang〕は[彼女の]未来の子供——を招き入れる〔precipiter〕のであります。

 この指摘〔remarque〕は、発達に関する問題に限界〔limite〕を定めて、それらを根本的な共時態〔synchronie〕に従属させることを求めています。

 

*1:(訳注)邦訳では躾とされている。

*2:(訳註)tout-venantをBruce Finkはhoi polloiと訳している。

*3:(訳注)この会議では女性のセクシュアリティを女性の部分〔la partie féminine〕からアプローチすることはしないという意味であろう。

*4:(訳注)réduireをBruce Finkはdispelと訳している。