レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(2/5)

 性格特徴は神経症の症状、反動形成、昇華と呼ばれるべきなのであろうか。そしてこれらのプロセスは互いにどの程度独立しているのだろうか。最も重要なのは、この問題に対するフロイトの流動する立場のなかで何が争点となっているのかである。性格特徴がいかにして形成されるのかという疑問に対する彼のためらいは、まるで昇華の概念の必要性が一般的に不確実なものであるということを言い表しているかのようである。精神分析の臨床的な概念は人間の性格や芸術といった臨床外の諸現象を説明するのに適当なのであろうか。フロイトのメタサイコロジーに関する未刊行の論文に昇華の議論が含まれていたかどうかは精神分析の歴史におけるよく知られた謎である。彼は1915年の春に五つのメタサイコロジーに関する論考を執筆した(スタンダード・エディションの14巻に全て所収されている[邦訳は『フロイト全集』14巻に全て所収])。さらに七つは同年の夏の間に書かれたようであるが、それらは決して刊行されることがなく、フロイトが破棄したものと思われる。失われた論考のうちの五つの主題については当時のフロイトの手紙のなかで言及されている。他の論考での言及を根拠に、その他の二つの論文のうちの一つの主題は昇華であったことが想定されている。フロイトは本当にその論考を破棄したのだろうか。もしそうであるとしたら、それはなぜなのか。

 その議論が受け入れられなかったことについて様々な形で想像してみたくなる。想定してみよう。まずメタサイコロジーの観点からは完全に独立した昇華の理論は不必要である、とフロイトは論考のなかで示していた。芸術作品は神経症の症状や夢と同じ心的機制によって製作される。それゆえ、昇華のプロセスの論文に対する文化の関係は『夢解釈』に対する夢の関係と同じである。フロイトの芸術解釈〔Kunstdeutung〕は精神分析物語論における一つの演習であったのかもしれない。あるいは、おそらく書かれなかった論考の二次的な書き直しを試しにしてみると、フロイトは症状や反動形成に伴う抑圧とはほとんど完全に異なったプロセスを詳しく述べていたのかもしれない。自我の文化的関心が幼児の性的関心に負っているものは何もないのかもしれない。昇華に関するこの種の論考は精神分析の力能の限界を必然的に定めてしまうのだが、それは二つの異なる方法のうちの一つによる。我々は、新たな心身二元論が文化的獲得のある水準で復権されるこうした脱性化のメカニズムを説明することになるか、あるいは抑圧された性的欲望に負っているものが何もない性化された振る舞いのある種の様式を説明することになるかのいずれかである。この後者の説明は文化と身体的強度との間の本質的な不連続性の神話を破壊することに膨大な関心が向けられている。それと同時に、私が文化的関心の非特異的な性愛エロース 化〔eroticize〕と呼んだものを論証して、フロイトはあらゆる精神分析的な論証の解釈を導出するのだろう。彼は精神分析的には分析不可能な関心が生み出されるプロセスを説明していたのだろう。

 昇華に関する二つの異なる試みを再構築する中で私が述べたあらゆることは、実際少なくとも、フロイトによって提起されている——もちろん昇華に関する論考の中ではないが。私たちはすでに「性格と肛門性愛」で大雑把に提起されたこれらの主張のうちのいくつかを見てきた。そして我々はそれらの主張のさらなる詳述を、もちろんその主張に対する反動をも、ナルシシズムに関するフロイトの1914年の著作から見出していきたい。しかし重要なのは、これらの様々な立場の間の矛盾にはっきりと立ち向かった人は誰もいないことである。性的なものとおそらく非性的なものの関係を解決することができなかったことの戦略的利点はなんなのであろうか。思慮を限りなく深めていくと、フロイトコーパスから我々の二つの試みのうち最初のものが排除されることが想像できる。精神分析のパブリックイメージにとって、文化という神聖不可侵なもの〔sacred cow〕に関する還元主義的な立場よりも最悪なことはなかった。のちの世代の精神分析の批評家たちによる敬虔な否定を予期した措置をとって、フロイトレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を停止された発達の歴史的な症例として、また分析的解釈を必要とする症例として分析する中で、レオナルド・ダ・ヴィンチ神経症ではないと我々に保証する。しかしそのような非一貫性は、精神分析の「イメージ」にとって、その非一貫性を消し去り、芸術は神経症の症状と同じメカニズムに従っていると主張するよりかはましである。実際、フロイト以来のあらゆる精神分析批評は芸術の退行的性質を支持する主張を隠蔽しようとしている*1。我々の二つ目の試みはしかし、一つ目の試みよりも一層受け入れ難いかもしれない。目下危ぶまれるのは、精神分析が狭い専門分野のなかで概念化されることである。非性的なものとしての文化であれ、あるいは精神分析的には解釈不可能な性的なものの変形としての文化であれ、それを理論化するにあたって、フロイトは彼の新たな学問分野をただ医学の新たな領域として定義するだろう。精神分析は人間の行動の病因的なものに差し控えられ、残りは手付かずのままである。それゆえ、フロイトは彼自身にとってはるかに興味深く必然的な展望となりうるものを破壊した。それは単なる医学的な解釈学または治療上の解釈学を超えた、文化的な解釈学としての精神分析である。

 しかしながら私が最も興味を引かれるのはいくらか奇妙なある可能性である。私が主張したいのは、昇華に関する我々の仮説上の二番目の試みにおける別の種類の危険性、別の種類の受容不可能性である。昇華されたセクシュアリティが、神経症的なセクシュアリティの概念とその概念を支持する性的なものの定義の両方に疑問を呈するかもしれないという可能性を考えてみよう。私が精神分析的には解釈不可能な性的なものの変形と性急に呼んだものを支持する試論は、精神分析の解釈の範囲を限定する代わりに、ある承認し難い方法で精神分析の力能を全体化するかもしれない。精神分析で最も受け入れ難いのは、かねてから一般的にそう思われているのだが、性的なものの定義である。しかし、今や我々はその定義がフロイト自身にとっても受け入れがたかったことを考えねばならない。昇華に関する論考を刊行しなかったこと(もしかしたら書くことさえもしなかったこと)は、したがって、力の望まない拡大を拒絶したと捉えられるだろう。昇華は精神分析の限界にある不必要な概念ではない。むしろ、その概念は、文化の哲学であるという精神分析の主張を正当化することによって、救済〔redemption〕の文化——失敗した経験を作り変えたり修復するものとしての芸術の概念——において、その緊張した共謀を強化するか脅かすかのいずれかになりうる。芸術を症状のように定義する昇華理論はそれ自体、セクシュアリティと文化についてのラディカルな見方——より正確に言うと、償い的〔reparative〕でも救済的〔redemptive〕でもない性愛エロース化という芸術の見方——に対する精神分析の不安定な関係の症状と見做されるに違いない。したがって私はフロイトが非症候学的な昇華理論から態度を変える過程を症候学的に分析していきたい。要するに、性化された生産物の類型としての文化という彼の見解において、何が抑圧されなければならないのだろうか。

*1:(原注)その試みや主張は、芸術と一次過程の関係についての思弁という文脈においてしばしば興味深い結論でもって頻繁になされてきた。私が考えているのは、例えばエルンスト・クリスの制御〔control〕・統制〔regulate〕された退行という概念である。そこでは自我は一次過程によって制圧される代わりに、一次過程を創造的に利用する。 彼の著作、Psychoanalyse Explorations in Art (New York: Schocken, 1952)を参照せよ。アントン・エーレンツヴァイクはクリスよりもさらに進み、「芸術における一次過程の非常に構造的な役割」を主張している。エーレンツヴァイクにとって、「クリスの概念に欠けていたのは(中略)創造性は一次過程のために退行を制御するだけではなく、一次過程自体の作業を制御するという洞察である」The Hidden Order of Art : A Study in the Psychology of Artistic Imagination (Berkeley: University of California Press, 1967), pp. 31, 261-262。最後に、ジャン=フランソワ・リオタールは極めて興味を掻き立てる主張をしている。彼は芸術における無意識のプロセスの二重の反転〔double renversement〕と彼が呼ぶものを主張する。芸術がただ無意識的欲望の内容を繰り返すだけである限り、それは症状のように読解することができる。リオタールにとって(そして我々にとっても)より興味深いのは、芸術における欲望の非現実化〔nonrealization of desire〕である。芸術作品は、幻覚的内容よりもむしろ欲望の運動を繰り返すことによって、欲望が構成されたいかなる決定的な意味にも落ち着かないようにする。それはまるで無意識的欲望がそれ自身の特徴的な操作様式の対象となることで、特定の表象を欠いているようである。Jean-François Lyotard, Discours, figure(Paris: Editions Klincksieck, 1971)と"Oedipe juif," Dérive à partir de Marx et Freud(Paris: Union générale d'éditions, 1973)を参照せよ。
 精神分析のコミュニティのうちで、もちろん芸術に関する議論は多数なされてきた。数年前のAmerican Imago誌のある号は「天才、精神分析と創造性」(1967年春—夏)と題するものであり、くだんの問題に対する繊細で見事な考え方を示している。それはフロイト的な美学の説明を試みる精神分析家にとって普遍的に重要であると思えるものであった。この号はクルト・アイズラーのレオナルド・ダ・ヴィンチとゴーチエに関する著作に影響を受けたもので、以下のような疑問に活発な議論を差し出している。ナルシシズムは芸術的創作をもたらす償いのエネルギーの背後にある成熟する力であるのか?創作の動機の強度は攻撃性やリビドーの派生物、あるいはたいてい「脱攻撃化〔deaggressivization〕」や「脱リビドー化〔delibidinization〕」に由来するのか?創造的なパーソナリティの退行は自我の貢献なのか、あるいは自我の回復や自我の生存をさえ目指しているのか?我々は昇華を創造性と同義であると考えるべきなのか?芸術活動は「自律的〔autonomous〕」であるのか、すなわち原初的な葛藤の領域から切り離されているのか?あるいは創造の過程全体は、それを絶えずはぐくむ根底にある葛藤と一緒になって進展するものなのか?これらの疑問のうちいくつかは確かに注目するに値するのだが、精神分析家(とりわけアメリカの精神分析家)がこれまでむけてきた注目はつねに知的な観点で単純すぎるように思われる。それはおそらくこれらの大御所の精神分析家たちがおそらくカント以来の美学理論と文学批判のほとんど全てに対して無関心であったことに由来するのかもしれない。芸術に関する熟達した精神分析的な関心の最高水準はもちろんジャック・ラカンの著作にある。マルコム・ボウイは近年精神分析の真理のために文学を使用するラカンアンビバレントで問題含みな試みをうまく説明している。ボウイは「ラカンが取り扱う文学の素材に示される賛美、羨望、攻撃性のリズム」について述べている。ボウイのFreud, Proust and Lacan: Theory as Fiction (Cambridge: Cambridge University Press, 1987), p. 158を参照せよ。
 一次ナルシシズムについてのフロイト派の仮説に関する思弁に影響を受けた芸術への理論的なアプローチを概略する私の試み(とりわけ第三章のボードレールニーチェについての議論を参照せよ)において、ハインツ・コフートは、彼のナルシシズムに関する著作と芸術に対する関心を考慮すると、期待のできる参照先のように思われるが、残念ながら彼は精神分析につねのクリシェを使うことにとどまっている。「音楽の心理学的機能についての観察〔Observations on the Psychological Function of Music〕」と題された論考のなかで、彼は「前性器的リビドーの攻撃的な緊張を緩和する音楽活動の心的経済の有効性」について述べている。そしてコフートはセラピストのいない統合失調症者にとって芸術は有用な代理となると提起している。なぜなら、よく知られているように、芸術は「制御・制限された退行」を可能にするからである。The Serch for the Self: Selected Writing of Heintz Kohut, 1950-1978, vol. 1, ed. Paul H. Ornstein (New York: International Universities Press, 1978), pp. 249-251を参照せよ。