セミネール14巻『ファンタスムの論理』第七講(抜粋)

S14:136

 フロイトが導入したありうる真理の保存についての思考には、技法的公正さがあるのですが、まったく救済がありません。その思考はこの粗野なルアーやそれが示す法外な誤用から距離を取るのです。そこには逆の教育として、ある種の幻想——それは精神分析的経験であるものにまっすぐ視線を投げかける人々にはとりわけ手に負えないのですが——による、補足captureの決然とした使用があります。〈他者〉をその唯一の地位——それは価値があり、パロールの場ですが——のなかに立て直すことは、必要な出発点であり、そこから我々の分析的経験におけるあらゆるものがその正しい場を取ることができるのです。

 パロールの場として〈他者〉を定義することは、〈他者〉が、主張が正直なものとして提起される場にほかならないことを意味しています。それは同時に、〈他者〉はその他の種類の実存existenceをもたないということをも意味しています。しかし、そのように言うことは、この真理を位置付けるために〈他者〉に訴えかけることでさえあり、私が話すたびにそれを再び出現させることなのです。こういうわけで、〈他者〉はいかなる種類の実存ももたないということを、私は言うことはできないが、書くことはできるのです。そしてこういうわけで、S、斜線を引かれたAのシニフィアン、S(A)をこのネットワークの結び目の点のひとつを構成するものとして私は書くのです。そして、この結び目の点のまわりにあらゆる欲望の弁証法が分節されるのです——言表と言表行為のあいだの隔たりからその弁証法が生じる限りにおいて。

 S(A)というこのエクリチュールが我々の思考にとって本質的な基軸の役割を果たすと言う主張において、いかなる不足も、また何かよくわからない無根拠な身振りへと還元するいかなるものもないのです。実際、数学的真理と呼ばれるものは大文字の〈他者〉を頼みの綱とするより他に基盤をもたないのです——〈他者〉を参照して、私がそこで操るものに*1関する我々の最初の慣習conventionのシーニュがそこに書き込まれているのを見てとるようにと、私が話しかけている人々が頼み込まれる限りにおいて。

 しかしながら、その職能の専門家であるバートランド・ラッセル氏は、数学によって我々が話していることについて我々は知らないし、我々が言っていることが真であるかも知らないということを、的確な用語で思い切って表明することさえしています。実際のところ、なぜでしょうか?ただ単純に、ある種の領野では、いくつかのシーニュの限定された使用に呼応して、私は話したことで、私が言ったことを書くことや断言することが可能になるというのは明白です。〈他者〉を頼みの綱とするより他にありません。

S14:137

 数学的推論のたびごとに、私はディスクールによって私が分節するものと確立されたものとして私が書き込むものとのあいだの往復運動をすることができないのならば、それは数学的真理と呼ばれるもののいかなる可能な前進でもないのです。それは数学で証明démonstrationと呼ばれるもの本質全体であり、〈他者〉を頼みの綱とすることはまさしくそれと同一の秩序なのです。

 思考のすべての効果のなかで、〈他者〉を頼みの綱とすることは完全に規定的なものです。デカルト的な「我思うJe pense」から結論づけられる「我在りJe suis」は、〈他者〉を免れていないのみならず、〈他者〉を根拠としているのです。それ(=我在り)が、この〈他者〉を神の本質の水準に位置付けるように強いられる前にすらこのことは行われているのです。ただ対話者から「故に我在りdonc Je suis」を獲得するためにだけ、この〈他者〉は直接的に呼び出されるのです。デカルトが彼のディスクールのために必然的に参照し身を置くのは、この〈他者〉であり、パロールの場であるのです。デカルトディスクールはあなた方の前で為しつつある私であるものを為すことに同意を求める、すなわち私に懐疑するよう説き勧めるのです。しかしながら、あなた方は我在りを否定しないことに疑念を覚えるのです。この段階からすでにこの論証は存在論であるのです。

 デカルトの推論が聖アンセルムスの論証の鋭利さはもっていないとしても、すなわちより簡素なものであるとしても、しかしながらある帰結を伴わないわけではありません。その帰結とは、シニフィアンによって、〈他者〉はパロールの場に他ならないということを、書かなければならないことから結果として生じる帰結なのです。

 我々はそこに到達して行っているのです。

 

2

 私はこのバカンスのあいだに聖アンセルムスのある章を参照するようにあなた方にお願いしておきました。そのことがいい加減なままにならないように、不当に価値下げされたこの有名な論証がどんな性質のものであるか、あなた方にもう一度話しましょう。その論証は、〈他者〉の機能にあらゆる起伏をを与えるためになされたのです。

S14:138

 その論証は、いかなる方法によっても、様々な手引書が言っていることに反して、そこで言われているような、最も完全なる本質は実存existenceを示すであろう、ということをもたらさないのです。

 第二章の「理解を探求する信仰Fides quaerens intellectum」を見てください。それは、聖書に従って「その核心において神はいない」と言っていた「狂人 l’insensé」に向けた議論で構成されています。議論は狂人におおよそ次のように言うことで構成されています。「狂人よ、すべてはあなたが神と呼ぶものに依存している。あなたが最も完全な存在を神と呼ぶのが明白であるために、あなたはあなたが言っていることを知らない。私、聖アンセルムスが知っているのは、最も完全な存在について観念はこの存在êtreが実在existerするための観念として実在する、というのでは十分でないということだ。しかしもしあなたが言っているようなこの存在は実在しないというこの観念を持つ権利が自分にあると考えるのならば、あなたはどんな人になるのでしょうか、もし偶然にもそれが実在するのだとしたら?最も完全な存在から作り上げたあなたの観念は不適切な観念である。なぜなら、それはこの存在は実在することが可能であるという観念から切り離されているからだ。それ[=この存在]が実在のものであるという観念において、それ[=この存在]はその実在を示さない観念において実在しないということよりも完全なものである」。

 要するに、これはある種の批判的な観点による、思考について何らかのものを分節している者の思考の無力さ、効力のなさの論証なのです。それは彼は自分が言っていることを知らないということを自分自身に示しているのです。だから検討すべきものはよそにあるのです。それはこの〈他者〉の地位の水準にあるのです。そこでは、パロールの領野である何かが分節されるたびごとに、私は自分自身を確立するより他にすることができないのです。

 この〈他者〉を——最近私の友達の一人がそう書いていたように——誰も信じません。我々の時代には、最も信心深い方々もリベルタンたち——もしこの用語がいまだにある意味をもつのならばですが——もすべての人は無神論者なのです。哲学的に、この〈他者〉のなんらかの実在の形式formeに立脚するあらゆるものに我慢ならないのです。「我思う」に続く「我在り」の射程は、この「我思う」が意味をなしていることにとどまるのです——しかし、どんな非-意味も意味をなすというのとまさに同じ仕方で。

 私がすでにあなた方に教えたように、あなた方が分節するあらゆるものは、ある種の文法的形式が維持されてさえいれば——私は「色無き緑の考えcolorless green ideas」に立ち戻る必要があるでしょうか——、文法的形式がただ単にあるものはすべて、意味をなすのです。これが単に意味していることは、そこから出発して、私はもはやそれ以上遠くに行くことはできないということです。言い換えると、論理的射程の厳密な考慮は、ランガージュのあらゆる作用を含んでいるのですが、基本的な効果であるものや確かに疎外であるもののなかに明確に現れるのです。それは我々が〈他者〉を信頼しているということを意味しているのではまったくありません。我々は反対に〈他者〉を頼みの綱とすることに基づいているあらゆるものの失効に気づくのです。

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 そこでは数学的推論の流れ、数学的帰納法を作り上げるものしか存続することができないのです。それは次のような形の論証です。もし整数nにおいて真である何かしらの事柄がn+1においても真であることを我々が明らかにすることができるのだとしたら、整数の全体について同様のことが真であると主張するためにはn+1にとってどうなっているかを知るだけで十分なのです*2。それがなんなのでしょう?それはそれ自体では真理の性質についてのいかなる帰結も伴いません——バートランド・ラッセルの見解、すなわちそれが真であるか我々は知らないということから私がピン留めした帰結を除いては。

 我々にとって、しかしながらこの帰結の背後に隠されている何らかのものが我々に真理を打ち明けるに至るのとは事情は全く違うのです。本質的なものを前にしてたじろぐ場を我々はもっていません。それは思考の地位が、〈他者〉の崩壊として疎外が実現される限りにおいて、構成される場であり、それは長方形の左上における空白の領域のなかで、「私は考えない」——それはこの主張において誇り高いfierだけでなく華々しいglorieuxものであるのですが——から分節される「私」の地位に起因するものから構成されるのです。そうすることによって、それを補うものは私がça、すなわちフロイト学派のエスとして示すものです。私はそれを補完するものとして前回構成しましたが、それは疎外から落ちた部分——すなわち消失としての〈他者〉の場——から「私は考えない」に至ります。そこに残っているものは、pas-jeであり、私が文法的構造として示したものです。

S14:140

 このようにしてそのことを思いついたのは確かにフロイト学派の特権ではありません。『論理哲学論考』を読んでください。論理実証主義と呼ばれる学派全体が最も無味乾燥としており最も凡庸な一連の反哲学的考察を我々の耳に投げかけるからといって、ヴィトゲンシュタイン氏の歩みはまったくないと信じてはいけません。論理的考察——それは主体のあらゆる実存を必要としないのですが——の結果として生じるものを構成する試みは、あらゆる細部まで追いかけるに値するものであり、私はあなた方にそれを読むことを勧めます。

 我々フロイト学派にとっては、反対に、ランガージュの文法的構造が提示するのはまったく別のものです。そんなわけで、フロイトが欲動を分節したいとき、この文法的構造を通してしかそれをすることができません。その文法的構造は完全で整序されたその領域をフロイトが欲動について話すとき実際に支配的になるものに与えるただひとつのものなのです。私が言っているのは、欲動そのものに関して機能しているただ二つの例、すなわち窃視的な欲動とサドマゾヒズム的な欲動を構成することについてであります。

 「私は見たいJe veux voir」が支配的な機能をとる——どこからそしてなぜ私は見つめられているのか知るという問題は開かれたままとなっています——ことができるのはランガージュの世界においてのみなのです。前回の途中に指摘したように、「子供が叩かれる」が中心的な価値をもっているのは、ランガージュの世界においてのみなのです。誰がそれを支えているのか、すなわち誰によってそれは行っているのかと言う疑問を行為の主体が生じさせるのは、ランガージュの世界においてのみなのです。

 間違いなく、このような構造に関連するものついて言われることは何もない。そこでは、我々の経験が明確にしていることは、しかしながら、欲望の機能にその法を与えるのは、このような構造であって、どれか分からない[精神]分析の会合の舞台裏をうろついているもの、すなわち誰もがそのようなものとして定義することが不可能であるような性器的と言われる欲動ではないのだ、ということなのです。この構造が構成される文法的分節化を反復すること、すなわちそれに基づいている文のなかで主体がそこに住まうのとは別の方法で推論されるものを提示する以外には、それについて言われるものは何もないのである。我々が実際に耳にするもの、すなわち告訴のなかの主体以外には、それについて言われるものは何もないのである。

*1:Cormac Gallagher版においては、私が操るものce que je manipuleは数学の使用を指している。”as regards what is involved in what I manipulate in mathematics, which …”(CG:61)。

*2:Cormac Gallagher版においては、「nについて真であることがn―1についても真であることを証明できるのであれば、同じことが整数の級数全体についても正しいと断言するためには、n=1のときに何が関係しているかを知っていれば十分なのですif we can prove that something that is true for n is also true for n-1, it is enough for us to know what is involved when n=1 in order to affirm that the same thing is true for the whole series of whole numbers」(CG:62)。

フィリップ・ファン・オト「象徴界と無意識の優位」試訳(抜粋)

Philippe Van Haute, Against Adaptation: Lacan's Subversion of the Subject, Other Press, 2001, pp. 14-18. 

 ラカンによると、メトニミーのプロセスはシニフィアンが共通で隣接する文脈において互いに連結される仕方と関連している。一般的に言えば、メトニミーは同一対象を他の語で——しかしながらそれは同じ意味上の文脈に属しているのだが——指し示すことであると言うことができる。ラカンが自身の言語理論を体系的な方法で提示している「無意識における文字の審級」において、彼は「30の船」を表す「30の帆」というメトニミーの例をあげている(E:601も見よ)。「30の船」を表現するにあたって、二つの用語は同じ意味上の文脈に属しているという事実に基づいて「船」は「帆」に取って代わられる。「カウチに座ること」という表現において、「カウチに座る」は「精神分析において」を表している。シニフィアンはここでは「カウチ」と「精神分析」が同じ意味上の文脈に属しているという事実に基づいて新たな方法で接続されている。最後に、例えば「私は一つグラスを持っている」という表現はメトニミーであり、「私は一杯のビールを飲んでいる」ということを表している。ここでもまた、シニフィアンが互いに新たな方法で連結されるのを可能にするのは意味上の近接性なのである。したがって同一の指示対象(referent)は一語以上によって意味される(signify)のである。

 したがって、ラカンによればメトニミーにおいてはいかなる新たな意味作用も生じない。もとのシニフィエとメトニミーの表現は相変わらず同じである。なぜならそれを指し示す諸々のシニフィアンはお互いに隣接(contiguity)の関係を通して結び付けられているからである*1。しかしながら、我々はこのことから次のことを結論づけることはしないだろう。それは諸シニフィアンのあいだのメトニミーの連結はランガージュの外部にある現実のなかの連結に見出されるにすぎないのかもしれないということである。諸シニフィアンのあいだのつながりは自律した指示対象(referent)によって支配されているわけではないのである。このようにして、例えば我々が「30の船」を「30の帆」で取って代える(replace)とき、これは我々もまた現実において「30の帆」を見るであろうということを保障しないのである。船は多くの場合ひとつ以上の帆を持つのである。したがって、二つのシニフィアンのあいだのつながりは、シニフィエの自律した現前によって、すなわち我々が見てきたようにシニフィアンの示差的決定によっていずれにせよ不可能にされるものによって、支配されているのではない。シニフィアンが意味する(signify)のは、他の諸シニフィアンとの差異の力によってのみなのである。

 これが示しているのは最終的な審級(instance)においてランガージュにはいかなる実証的な言葉(positive terms)も存在しないということである。すべてのシニフィアンは終わりない連続のなかのある瞬間にすぎず、そのシニフィアンもさらに他の諸シニフィアンによって補われるに違いないであろう。そしてその諸シニフィアンもまた何度もシニフィエを終極的に決定するのに失敗し続けているのである。我々の例にとって、これが意味しているのは、「船」を「帆」で取って代えることは残余なく現実に基づいているのではない、ということである。ラカンによると、したがってメトニミーはランガージュの一般的な特性と関係しており、そのために、すべてのシニフィアンは必然的に他のシニフィアンによって続けられる。この運動に終わりをもたらすことのできる究極的なシニフィアンは存在せず、すべての意味作用の表明は限定されていて、不完全である。それゆえにラカンはメトニミーをランガージュの通時的な次元と結びつけるのである。というのも、メトニミーは原則的には時間のなかで展開するシニフィアンの連結を指し示しているからである*2

 それでは、ラカンはどのようにしてメタファーを理解しているのだろうか。非常に一般的に言って、メタファーは置換(substitution)のプロセスを指し示していて、それによって二つの異種の(heterogeneous)意味上の領域にある二つのシニフィアンは互いに置き換えられる。このようにして、「ジョンは本物のライオンだ」という表現は、そこで「ライオン」のシニフィアンは「勇敢さ」のシニフィアンに取って代わるのであり、メタファーである。伝統的に、メタファー化のこのプロセスはしばしば次のような仕方で理解される。ひとつのシニフィアン(「勇敢さ」)は取り消され、別のシニフィアン(「ライオン」)がその場に置かれる。つまり、二つ目のシニフィアンは消えたシニフィアンシニフィエと結びつけられる。このようにして、この伝統的な見方では、メタファーは実際には本来の表現と同じことをしかしながら別の方法で言っているのである。ラカンはきっぱりとこの考え方を否定する。メタファーは同じことを別の仕方で言っているわけではない。「ジョンはライオンだ」は「ジョンは勇敢だ」以上の何か、それとは他の何かを言っているのである。それはなぜなのか見ていきたい。

 我々が知っているのは、つねにひとつのシニフィアンはあまりにわずかでありシニフィエを終局的に決定することができないために、シニフィエは終着した同一のアイデンティティでは決してない、ということである。それゆえに、シニフィエが二つのシニフィアンのメタファー的な置換の十分な基盤として機能するのは不可能である。メタファーの言葉(我々の例では「ライオン」)はその場において文字通りに使われているであろうシニフィアンに取って代わらない——実際は、シニフィアンの示差的特徴は文字通りの意味の決定を不可能にするのである。結果として、「ジョンはライオンだ」という表現は「ジョンは勇敢だ」という表現に完全に還元されることはできないし、後者の表現は「ジョンはライオンだ」というメタファーの実際の本当の(文字通りの)意味を表現することもできないのである。メタファーは、その結果、本来のものに還元できない新たな意味作用を創造するのである*3

 「無意識における文字の審級」のなかで、ラカンは次のようなメタファーの例をユゴーから提供している。「彼の麦束は欲深くも意地悪くもなかった Sa gerbe n'était pas avare, ni haineuse」(E:506-507)。ここでは「麦束 gerbe」は「ボアズ Boaz」という旧約聖書の「ルツ紀」の農夫を表している。伝統的には、このメタファーは置き換えられた言葉(「ボアズ」)の観点から扱われ、「ボアズ」と「麦束」の意味(meaning)の等価性が探し求められる。しかしながら、ラカンはこの表現を書かれた通りに受け取っている。一見すると、この表現は絶対的に無意味なように思われる。いかなる麦束もまったく感情を見せることはないのだから。この見かけ上の意味の欠如は、しかしながら、シニフィアンにそれらの完全なシニフィアンの力を返上するのである。この仕方において、見かけ上の意味作用の欠如はあるシニフィアンの効果を創造するのであり、そのシニフィアンの効果はどの点においても回復されることのない、すなわちその文字通りの意味作用を与えるであろう別の表現に遡ることのできないものである。「麦束」のシニフィアンを「ボアズ」に取って代わらせようとするものは何もないが、一度この置換が作られると、導出不可能な意味作用が生じる。こうして、メタファーは構成された意味作用——それは前もって与えられたシニフィエのいかなる参照からも独立している——を自律的に乗り越えるシニフィアン(の体系)の能力を指し示し、かつ完全に新しい何かを言っているのである。この最後の点はなぜラカンはメタファーをランガージュの通時的な次元と関連させるのかを明らかにしてくれる*4。メタファーはシニフィアンが互いに結合する方法と関連するのではなく、構成されたあらゆるつながりと意味作用を混乱させるシニフィアン(の体系)の能力と関連しているのである。

 

*1:(原注)この隣接(contiguity)はさまざまな形式をとることができる。部分—全体、原因—結果、内容—容器など。

*2:(原注)「(前略)メタファーとメトニミー、言い換えると、ディスクールのなかに現れるそれぞれ共時的な次元と通時的な次元におけるシニフィアンの置換(substitution)と組み合わせ(combinaison)の効果」(E:799-800)を参照せよ。

*3:(原注)もしいかなるシニフィアンも固定された意味作用——それに基づいてメタファーの置換が説明され認可されるような意味作用——をもたないのならば、したがってラカンにとって、このことがまた意味しているのは、メタファーは、それ自体で根拠となる、別のシニフィアンによるあるひとつのシニフィアン純粋な(sheer)置換として定義づけられる、ということである。

*4:(原注)「(前略)メタファーとメトニミー、言い換えると、ディスクールのなかに現れるそれぞれ共時的な次元と通時的な次元におけるシニフィアンの置換(substitution)と組み合わせ(combinaison)の効果」(E:799-800)。

動物磁気の系譜まとめ

対象関係からみる動物磁気の系譜まとめ。

フランツ=アントン・メスメル(1736-1815)

 ウィーン大学医学部の医師であったメスメルはその教義や治療法の突飛さによってオーストリアから追放され、1778年にパリに転地した。彼は普遍的流体(un fluide universel)の理論を構築し、病気は人間の体内における流体の不均衡に由来すると考えた。メスメルは磁気術によって「分利」(crise、要するに発作)を誘発し、流体を調和させることで病人を治療できると考えていた。この治療法は鉱物磁気を人間に適用したものであるために動物磁気(magnétisme animal)と名付けられ、その発明家の名にちなんでメスメリズムとも呼ばれる。メスメルは「交流」(rapport)という概念を用いており、ここに対象関係論の源流を見出すことができる。しかし、まだ心理学が花開く以前の電気や磁気が花盛りであった時代に頭角を現したメスメルにとって、治療者と患者の交流をもたらす作用因はただ磁気流体(fluide magnétique)のみに求められ、情動的要素はほとんど考慮に入れられなかった*1。メスメルは治療者と患者の関係を一方的な支配関係に置き、また患者に「言語的対話」(dialogue verbal)を禁じ、分利のような「身体的対話」(dialogue somatique)のみを許すことによって、ともすれば性愛に発展しやすく、そうした非難にさらされていた治療関係において患者との個人的な関わり合いを避けていたようにも思われる。

 

バイイの報告(1784)——動物磁気への批判——

 メスメルの理論は当初から科学者の間で疑いをもたれていた。メスメルに関する論議が喧しくなった頃、ルイ16世は動物磁気の研究のために二つの委員会を設置した。一つは王立医学協会(Société Royale Médecine)(のちの医学アカデミー)である。この節で扱うのはもう一つの科学アカデミー(Académie des Sciences)のメンバーから発足した委員会である。メンバーには、バイイ、ベンジャミン・フランクリン、ラヴォワジェなどがおり、当時の科学界の権威が集結している。両委員会は動物磁気に関する報告書を提出したが、どちらの報告書でも動物磁気は非難され、あらゆる流体の存在も否定されている。バイイは磁気術の効果を「想像」(imagination)によるものと考えた。ここには対象関係の心的作用の実在が勘づかれているが、彼はそれを科学の対象として積極的に取り扱うことはなかった。バイイは公的な報告書に加えて、国王に極秘報告書を提出している。そこで注目されるのは、磁気治療に性愛的な効果をみとり、磁気治療を風紀を乱すものと結論づけている点である。この極秘報告書によらずとも知識人たちの間ではメスメルの動物磁気に伏在する「性的な危険性」を疑われていた。したがって磁気術師たちが治療のファクターのうち情動を低く見積もりもっぱら磁気という物理学的なファクターに執拗なまでに依拠していたのも、こうした道徳的非難に対する抵抗の表れと見ることもできるかもしれない。バイイに代表される道徳的非難はそれに対する抵抗という形で磁気術師たちの主張を運命づけるものであった。

 

ピュイゼギュール(1751-1825)

 メスメルの高弟ピュイゼギュールは、患者の行動は完全に停止するのに治療者との対話能力が残る「磁気夢遊病」(somnambulism magnétique)を最初に記述した人物である。彼はしたがってメスメルとは異なり患者との対話を排除せず、治療は患者を完全に従順な退行状態に置くことが目指された。彼も流体論者であることには変わりないが、磁気のみならず第二の要因として情動的要素をもすでに考慮に入れていた。また彼は分利によって次第に患者の夢遊状態は減衰していき、最後には病気とともに消失し、それ以後は磁化への感受性も消え去ると考えていた。要するに、患者に磁気催眠が効かなくなることは治療の成功であり、そこで患者の治療者に対する依存は解消される。精神分析の用語で言えば、「転移」(Übertragung)とその解消にあたるものをピュイゼギュールは捉えていたと言えそうである。

 

ドゥルーズ(1753-1835)

 シュルトーク、ド・ソシュールによれば、ドゥルーズは流体論者の磁気術師たちのなかで最も優れている著作を著した(NP:31)。ピュイゼギュールの弟子ドゥルーズは先に触れたバイイの主張に代表されるような道徳的非難を強く意識していた人物である。ドゥルーズは治療関係における情動的な「交流」をはっきりみとめていたが、それは性愛の感情とは全く異なるものであると主張した。彼によると、治療で生じるのは「穏やかな愛着」(tendre attachement)でありそれは治療の終結とともに解消される。彼は治療の開始に「交流」が必要であることを論じているが、やはり磁化(催眠)において感情は物理的次元に対して副次的なものとみている。

 

シャルル・ド・ヴィレール(1765-1815)とジュリアン=ジョセフ・ヴィレー(1775-1846)

 次に動物磁気における物理的次元と情動的次元の上下関係を転覆させた二人の人物について。

 メスメル-ピュイゼギュール-ドゥルーズの正統派が、情動的なファクターによる対象関係の考え方を退けた、あるいは気づいていながらも物理学的なファクターに対して副次的なものだとみなしていたのはすでに論じたとおりである。ここで時代を遡り別の文脈に注目してみると、ド・ヴィレールが治療において対象関係を真に扱うことの必要性を説いていることが確認できる。

 ド・ヴィレールには『愛の磁気術』(1787)と題する小説がある(当時まだ21歳!)。この書は対象関係を治癒のファクターとして扱った最初の書物である。彼は流体にいかなる役割も与えず、磁気術の物理的次元における効力を認めなかった。ド・ヴィレールにとって、治癒とは治してもらいたいという患者の治癒への情念(passion)と治そうとする治療者の情念という二つの情念の出会いによって生じるものである。彼は物理的次元よりも、対象関係における情動的作用の効果を重視しており、すでに治療者と患者の相互的関係に気がついていたのである。このド・ヴィレールをもって——時代に先んじるが——磁気術から暗示(suggestion)への移行が準備される。

 医師ヴィレーは1818年の医学辞典第24巻の「磁気医学の公正な検討」という項目を著した。動物磁気の効力に相互的なもの(réciproque)の作用があること明記しているので、孫引きの形にはなるが引用したい。

動物磁気の名で表されているものは、個人と個人の間に時として生じる一種の相互的な影響(une influence réciproque)のことで、これは意志や想像によるものであれ身体的感受性によるものであれ、交流の調和に従う相互的影響である(NP:39-40)。

ド・ヴィレールとヴィレーは精神分析において「転移-逆転移」と呼ばれるような、治療者と患者における相互的な情動作用の存在(対象関係)を認めていたのである。

 

ファリア(1755-1819)とベルトラン(1795-1831

 最後に、のちにナンシー学派が発展させる暗示の理論の創始者とみなされる二人の人物について。

 ポルトガル人の司祭ファリアは1813年にパリで流体論に対して革命的な態度を取るようになった。治療者に特別な力はなく、すべては患者の精神のなかで起こると主張した。技術の改革としては、催眠のために患者の視線を一つに固定させる方法、言語的暗示(「眠りなさい」「目覚めなさい」)を与える方法を用いた。

 理工学校出身の医者ベルトランはもともと流体学派に属していたがのちに反対し、ファリアと近い考え方を提出する。彼は夢遊状態の諸現象は磁気術師の想像力ではなく、患者の想像力に求められると考えていた。夢遊状態において患者が治療者の話しか聞こえない選択的関係も、赤ん坊を世話する母親が睡眠しながらも赤ん坊の声にだけは反応する事態と等しいとして、ベルトランは睡眠と催眠を類似したものだと考えている。

 

 以上が動物磁気の系譜である。動物磁気は電気や磁気が隆盛する時代において発見された対象関係による治療法を科学的な理論として提出するものとして出現し、当初その作用因である情動的な影響は、動物磁気が性愛の要素を含んでいるとの非難に対して磁気術師たちは抵抗を図っていたために、無意識に抑圧されていた。ところが次第に治療効果における情動的因子の役割があらわになっていき、むしろ磁気そのものは交流のための手段にすぎないことが理解され、暗示や催眠の時代に移行していくのである。以後、動物磁気の語は、ジェイムズ・ブレイドによる「催眠術」(hypnotisme)の導入とともに棄却されることとなる。

L. シュルトーク、R. ド・ソシュール精神分析学の誕生』(岩波書店、1987年)をもとに作成。

*1:L. シュルトーク、R. ド・ソシュール精神分析学の誕生』(以下、本文中の括弧内にNPと略記し、邦訳の頁数を記す)によると、メスメルによる感情についての記述は一箇所だけ存在し、その後その考え方は発展しなかったという。しかし、そこでは、メスメルは動物磁気は最初は感情を介して伝わると主張しているのは興味深い(NP:11)。

ジャック・ラカン「女性のセクシュアリティに関する会議に向けた指導的意見」(1-6/10)

E725

1. 歴史的な導入

 60年にわたる発展のなかで精神分析の経験を考慮してみれば、次のようなことを耳にしても誰も驚きはしないでしょう。それは、精神分析の経験はそれ自体、父によってもたらされた抑制〔répression〕にともなう去勢コンプレクス——それは精神分析の経験の起源における最初の産物であるのですが——を基礎付けるものとして考案されたのにもかかわらず、精神分析の経験は次第にその関心を母に由来するフリュストラシオン〔frustration〕へと向けることになった、それによってこの去勢コンプレクスは十分に解明されることなく、ところがその諸形式は歪められてしまった、というものです。

 情動の欠乏〔carence affective〕という概念は、発達の諸問題を母親の世話〔maternage〕の現実的な欠乏に直接的に結びつけることで、母親の身体をその想像的な領野である空想の弁証法と二重化〔se redoubler〕しているのです。

 ここで問題となっているのは明らかに女性のセクシュアリティを概念として普及することであり、それによって我々はある著しい怠慢〔négligence〕に気づくことができるのです。

2. 主体の定義

 この怠慢は、人々がこの際に注目を促そうとしているまさにその点を示しているのです。それはすなわち女性の部分〔la partie féminine〕です——少なくともある局所的な場所を性交の行為〔l'acte du coït〕で使用する生殖的関係の争点において、この女性の部分という用語がいくらかでも意味をもっているのだとしたら、ですが。

E726

 あるいは、我々が満足し続けている高尚な生物学の画期的な発見から我々自身を格下げしてしまわないようにするというのならば、女性には、高等生命体のうちにある性的差異〔différenciation sexuelle〕の解剖学的な付属器〔phanère〕によって、いかなるリビドーの道が割り当てられているのでしょうか。

3. 諸事実の検討

 この計画には以下のようなことを最初に検討する必要があります。

  1. 性交の手段と行為を考慮する精神分析の経験のという条件のもとで女性によって証明される諸現象について。それは、これらの諸現象が我々の医学的な出発点である疾病分類学〔nosologie〕の基礎を裏付けるか、または裏付けられない限りにおいて、でありますが。
  2. これらの諸現象が、我々の分析活動が欲望として認識する原動力〔ressort〕に、とりわけそれらの無意識の派生物〔rejeton〕に、従属していることについて。その無意識の派生物は、その行為に関して求心的であれ遠心的であれ、そこから生じる心的エコノミーへの諸効果をともなっており、それらの中でも愛の派生物は別のものとして考えられます——それらの結果が子供へと移行することについては触れませんが。
  3. 当初は解剖学的な重複〔duplication〕と関連しており、次第に「人格学的な」同一化へと移行していった、心的な両性性〔bisexualité〕[の概念]が決して撤回されることのなかった意味〔implication〕について。

4. 欠如の光

 以上のような概要から、ある種の欠如〔éclat〕が見出されるのでありますが、その関心〔intérêt〕は免責〔non-lieu〕によって回避されることはないのです。

  1. 我々はいつも生理学の新たな諸発見(例えば、染色体の性とその遺伝的相関の諸事実、染色体の性のホルモンの性との差異、それらの解剖学的決定における相応の役割、あるいは単純に男性ホルモンのリビドー的特権やさらには月経現象におけるエストロゲン代謝の秩序に関して発見されたこと)の臨床的解釈のこととなると差し控える必要が生じてくるのですが、その諸発見はそれにもかかわらず我々に考える間を与えてくれるのです。それは、それら諸発見がある実践によって無視されてしまっているためであり、その実践において人々はそれらの事例を決定的な科学作用に対するメシア的〔messianique〕な接近に難なく基づかせるのです。

    E727

     ここで保たれている現実的なもの〔réel〕との距離は実際には関連する断絶についての疑問を生じさせるのでしょう。その断絶は、もし身体的なものと精神的なものとの間に連帯〔solidaire〕が築かれるのでないのならば、有機体〔organisme〕と主体〔sujet〕の間に、後者のために情動の評価を破棄する条件を必要とするのです。

  2. 反対に、精神分析のアプローチを起源とするパラドックス、すなわちリビドーの発展におけるファルスの主要な位置〔position-clef〕は、事実〔fait〕において繰り返される執拗さ〔insistance〕のために興味深いものであります。

     ここにおいて、女性におけるファルス期〔phase phallique〕の問題がいまだよりいっそう議論を孕むものであるのです。ですので、1927年から1935年の大騒動〔fait rage〕が生じたのち、それ以来、女性におけるファルス期の問題は暗黙のうちに不分割〔indivision〕のまま放置され、各々の好きなように解釈されることとなったのです。

     この理由を究明することによってこの未決定状態〔suspens〕を解消〔rompre〕することができましょう。
     想像界現実界象徴界というのは、発達が適合する主体の構造におけるファルスの影響〔incidence〕に関係しており、これらは個人の教え〔enseignement〕による用語ではなく、ある特定の著者の文章〔plume〕において概念の横滑り〔glissement〕が注目〔se signaler〕される用語そのものなのです。その横滑りは、それが確認されなかったために、議論の停滞〔panne〕のあとに続いて分析経験の沈滞〔atonie〕を導くことになったのです。

5. 膣器官〔organe vaginal〕の闇〔obsculité〕

 禁忌〔interdit〕の統覚〔apperception〕は、先行するもの〔precédé〕がどれほど曖昧〔oblique〕であったとしても、序幕〔prélude〕の役割を果たすかもしれません。

 それは我々の学問分野*1〔dicipline〕——それはセクシュアリティの観点からこの分野〔champ〕に応答するために、セクシュアリティのあらゆる秘密を白日にもとに晒すのを許可しているように思われるのですが——が、ほとんど熱心とは言い難い生理学が匙を投げた〔donner sa langue au chat〕まさにその点で女性の享楽〔jouissance〕について認識されていることを置き去りにしてきたという事実によって裏づけられるのでしょうか。

 クリトリスの享楽と膣の満足〔vagin〕というありふれた〔trivial〕対立〔opposition〕は多くの主体を心配〔inquiétude〕させる理論によって強化され、またその理論はこの心配を、権利要求〔revendication〕にまでではないとしても、主題〔thème〕にまで持ち上げたのです——だからといってこれらの対立〔antagonisme〕はより的確に解明されたとは言えないのですが。

 このために膣器官の性質は侵されたことのない未知の領域〔ténèbre〕のまま保持されているのです。

E728

 というのも子宮頸部〔col〕の感度〔sensibilité〕というマッサージ療法〔massothérapique〕の概念や膣の後部内壁〔la paroi postérieure〕に関するnoli tangere〕という外科〔chirugical〕の概念は偶然的な事実によって(おそらく子宮摘出〔hystérectomie〕によって、それだけでなく膣の形成不全〔apalasie〕によっても!)生じたものであるということが明らかであるためです。

 女性〔sexe〕の代表者たちは、彼女たちの声が精神分析家のうちでいかなる音量〔volume〕であったとしても、この刻印〔sceau〕の取り消しのために彼女たちの最善のものを与えてくれたようには思われないのです。

 ルー・アンドレアス=ザロメ夫人が個人的な立場をとっていた直腸〔rectal〕の属領〔dépendance〕の有名な「賃貸借」〔prise à bail〕を別にして、その女性たちは一般的に隠喩〔métaphore〕を用いるにとどまっており、その理想の高さは、一般大衆〔tout-venant〕*2がさほど意図〔intentionnel〕するところのない詩情〔poésie〕によって我々に与えるものよりも好まれるに値するものを何も意味〔signifier〕しないのです。

 女性のセクシュアリティに関する会議はテイレシアース〔Tirésias〕の運命〔sort〕の脅威〔menace〕を我々の上に重くのしかけようとするものではありません*3

6. 想像的コンプレクスと発達の諸問題

 この事態が現実的なものへの接近〔abord〕において科学的な袋小路〔impasse〕を露呈〔trahir〕しているとしても、しかしながら少なくとも会議に集う精神分析家たちから期待できるのは、精神分析の方法〔méthode〕もまさしく同じような袋小路から生まれたことを彼らは忘れていない、ということです。 

 様々な象徴〔symbole〕がここでは想像的〔imaginaire〕な手がかり〔pris〕以外のものをもたないのは、おそらくイマージュ〔image〕がすでに無意識的な象徴体系〔symbolisme〕に従属している、言い換えるとあるコンプレクスに従属しているからでありましょう。これは女性〔chez〕イマージュや象徴は女性〔de〕イマージュや象徴から切り離すことができないということを思い起こすいい機会であります。

 表象〔représentation〕(フロイトがそれは抑圧〔refouler〕されたものだと指摘するとき使用するタームとしてのVorstellung )、女性のセクシュアリティの表象は、抑圧されていようとなかろうと、その利用〔mise en œuvre〕を条件付ける。その遷移〔déplacer〕された出現〔émergence〕(そこで治療者の学説は魅力的な部分を見出すだろう)は、それが自然と洗練されたものだと考えられようと、その動向〔tendance〕の運命〔sort〕を定めるのです。

 思い起こさねばならないのは、ジョーンズが、それ以後のあらゆる貢献のために地上を焼き払ったかのように思われたウィーンの精神分析協会に宛てた意見書〔adresse〕のなかで、クラインの諸概念への純然たる荷担〔ralliement〕を、クラインがそれらを示したときのような完全な荒々しさ〔brutalité〕でもって、表明することしかすでにもはやできなかった、ということです。メラニー・クラインの無頓着〔insouci〕に注意しましょう。それは、彼女は最も早期〔originel〕のエディプス幻想〔fantasme〕を母親の身体〔corps maternel〕に含めており、それら幻想の出所を父の名〔Nom-du-Pére〕によって仮定されている現実〔réalité〕に由来するとしているメラニー・クラインの無頓着〔insouci〕です。

E729

 これらすべてはフロイトパラドックス、それは自分の性器に対する原初的な無知〔ignorance primaire〕のもとに女性を据えながらも、我々自身の無知の学識のある〔instruit〕告白〔aveu〕によって和らげ〔tempérer〕られもするのですが、そのパラドックスをジョーンズが軽減*4〔réduire〕する試み——自然の本性〔naturel〕の優位〔dominance〕という先入観〔préjugé〕のあるジョーンズのとても活力に溢れた試みであったため、彼はそれを創世記の引用で確証することに喜びを見出しています——の中で到達したものだと考えるとしたら、我々は何を獲得したか分かりません。

 というのも、それは男女の性におけるファルス期の曖昧〔équivoque〕な機能によって女性の性になされた誤り〔tort〕(「女性は生まれたのか、作られたのか?」とジョーンズは書いている)であるので、口唇の攻撃性にまで退行〔reculer〕することでファルスの機能がさらにより曖昧になるとき、女性性〔féminité〕はより明示〔specifier〕される、ということはないように思われます。

 多くの雑音〔bruit〕も、発達の竪琴〔lyre〕に関する次の疑問を調整〔moduler〕するのを許してくれるのならば、実際は無駄ではなくなるでしょう。なぜならそこには音楽があるからです。

  1. 幻想的〔fantastique〕なファルス貪食〔phallophasie〕によって母の身体の乳房〔sein〕から引き出される悪い対象は父の属性〔attribut〕なのでしょうか。
  2. 良い対象の身分〔au rang de〕に持ち上げられ、より利用〔maniable〕しやすく(原文ママ〔sic〕)より満足できる(どういう点で?)乳首〔mamelon〕のように欲望される同じ対象〔même〕において、疑問は明らかになります。それが取り入れ〔emprunter〕られるのは同じ第三者からでしょうか。というのも、それは結合した親〔parent combiné〕という概念を取り入れる〔se parer〕のでは十分でなく、その混淆〔hybride〕が構成されるのはイマージュ〔image〕としてなのか、象徴〔symbole〕としてなのか、我々は未だなお知らなければならないからです。
  3. クリトリスは、その誘惑〔sollicitation〕が自閉的〔autistique〕であろうと、やはり現実的なもの〔réel〕に押し付け〔s'imposer〕られるのであり、いかにしてクリトリスは以前の幻想と比べられるのだろうか。
     クリトリスによって幼い女の子の性器〔sexe〕を器官的な価値下げ〔moins-value〕のしるし〔signe〕のもとに置くことが独立〔indépendamment〕してなされるのだとしたら、増殖〔proliférant〕する重複〔redoublement〕の局面は——そこから様々な幻想が生じてくるのですが——「伝説上」〔légendaire〕の作り話〔fabulation〕に属することによって、それらの幻想を疑わしいもの〔suspect〕にするのです。
     クリトリスが(もまた)悪い対象や良い対象に結びつくのだとしたら、あらゆる欲望の対象の到来におけるファルスの等価性〔équivalence〕の機能にある理論が必要でありましょう。このことに対して、ファルスの「部分的」〔partiel〕な特徴について言及するだけでは十分でないのです。

    E730

  4. いずれにせよ、フロイトのアプローチが導入した構造の問題が再び見出されるのです。つまり、ファルスを象徴化〔symboliser〕する剥奪〔privation〕や存在の欠如〔manque à être〕の関係は、要求〔demande〕の特殊〔particulier〕で全体的〔global〕なあらゆるフリュストラシオン〔frustration〕を生じさせる持たないこと〔manque à avoir〕から派生〔dérivation〕することで確立されるのです。そして、その代用品——最終的には、クリトリスは競争に屈する前にそこに身を置くのですが——に基づいて、欲望〔désir〕の領野は、他のあらゆる欲求〔besoin〕が引き入れ〔s'engager〕られる性的な隠喩の回復〔récupération〕を通して、新たな対象——その最初の系列〔au premier rang〕は[彼女の]未来の子供——を招き入れる〔precipiter〕のであります。

 この指摘〔remarque〕は、発達に関する問題に限界〔limite〕を定めて、それらを根本的な共時態〔synchronie〕に従属させることを求めています。

 

*1:(訳注)邦訳では躾とされている。

*2:(訳註)tout-venantをBruce Finkはhoi polloiと訳している。

*3:(訳注)この会議では女性のセクシュアリティを女性の部分〔la partie féminine〕からアプローチすることはしないという意味であろう。

*4:(訳注)réduireをBruce Finkはdispelと訳している。

レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(5/5)

 精神分析はいかにして自我について語るのだろうか。私が思うに、これはフロイトナルシシズム論によって生じた主要な問題であり、その問題に答える方法は昇華の理論に重要な結果をもたらす。ある時には、私が主張したように、フロイトの仕事のなかで昇華は一次ナルシシズムの性愛的自我〔erotic ego〕に基礎付けられていて、また別の時には昇華のモデルは自我理想に対する自我のマゾヒスティックな関係であるように見える。ナルシシズムのこの二つの見解の対立的な状況を議論することで、私は一方が他方に比べて心的現実の記述としてより有効であると主張したいわけではない。「ナルシシズムの導入に向けて」は早期の自我形成の運命に関する記述として読むことができる。フロイトはまず最初に性的興奮の結果による自我の危機について論じているように思われる。その原初的状態において、自我の安定した構造が誕生することは望まれているだろう。そしてフロイトは自我が直面せざるをえない間主観的な危機に対する説明を与える。両親の批判とその代わりとなるものに対処する戦略として、自我はその批判の源泉を内面化し、同一化することになる。この同一化は内的分裂を生ぜしめ、多かれ少なかれ無価値な自我は不法の欲望を抑圧して、検閲官の批判——その賛同者であるナルシス的な愛が今やそれに依存しているのであるが——を抑制〔stiful〕するだけでなく、自我とその理想の間にある裂け目を埋める。フロイトの議論の不合理さは自我の歴史におけるこれら二つの契機の間に打ち立てる連関にある。つまり、理想自我の形成は一次ナルシシズムの満足を回復させる試みのように思われる一方、理想の構成は一次ナルシシズムにより生み出された自我の抑圧的脱性化〔repressive desexualization〕に依拠しているということである。

 「ナルシシズムの導入に向けて」においてどこか混乱しながら理論化されているのは、次の二つの立場の間でのフロイトのためらいである。それは、抑圧されていない性的エネルギーの自我関心〔ego interest〕への備給としての昇華の概念と、それとは全く異なる見解の二つであり、後者では昇華と症状形成や反動形成の境界が曖昧化されている。この最初の見解では、フロイトは昇華はつねにナルシス的に備給されていると提起している。これは自己愛の延長であり、より正確に言えば、これは広範なナルシシズムを含んでいる関心や活動なのである。昇華は決して自己関心〔self-interest〕の超越ではなく、自己享楽〔self-enjoyment〕の洗練された形式なのである。ナルシス的自己において自体性愛が繰り返され、体系化されるのとまさに同じように、一次ナルシシズムは我々の昇華の活動において回復され対象化される。遊び、仕事、芸術、哲学研究や科学研究の快は、それゆえ我々が愛する対象から逸れ、フロイトが主張するように、そこにおいて我々はセクシュアリティが発生した無対象的な享楽〔jouissance〕に戻るという観点から定義されなければならないだろう。

 これは言及したそれらの諸活動が対象関係を含んでいないと言っているわけではない。精神分析的な用語において問題となるのは、むしろそのような関係性があらゆる種類の文化的昇華において我々の関心を動機付け維持する快の特異性を説明できるのかどうかという点である。フロイトの性的興奮の定義において極めて重要な対象からの逸脱は、セクシュアリティの最も親密で秘密の動き、すなわち我々が対象の世界に適応する方法にたびたび熱狂的に注目するなかで精神分析自体が抑圧しようとしてきた動きである。性的な快はナルシス的リビドーの自己目的性〔autelic〕であるのと同様に対象リビドーの自己目的性でもあろう——対象に対する欲望が昇華されていない関係において、対象が最終的には消滅する享楽に達するのならば、対象それ自体は不可欠なままであり、保持されなければならないのではあるが。フロイトが主張するように、もし昇華がナルシス的リビドーに起源があるとするならば、したがって昇華は対象への無関心〔disinterested〕な関係を必然的に暗示することになる。高等な目標という昇華の目標についての一般的な理解は、無関心を理想化することによってではあるが、この観点を裏付ける。私が主張しているのは対象に関する目標の変換——例えば性的欲望から友好関係や利他主義への目標の変換——は性的なものの抑制や超越に依拠しているのではなく、むしろ対象それ自体の変更に依拠しているということである。自己は独我論的にそれ自身で快の源泉や対象となってしまうのである。

 昇華をこの方法で考えていくと、最終的に抑圧されていない性的エネルギーを昇華するというフロイトの論点を強調することになる。欲望の抑圧は、その対象からの解放では決してなく、たとえその対象への偽装された追及であったとしてもその欲望の永続化を強いるのである。昇華において、欲望の対象(リビドー的対象)は非性的な目標を追及する意識にほかならない。これは精神分析イデアリズムというより精神分析的リアリズムと呼んでもいいかもしれない。最も注目すべき文化的獲得や道徳性は性的なものからの分離〔abstraction〕を確かに含んでいる。そしてこれが意味するのは我々の文化的獲得物や倫理的理想に対するある種の文明的無関心〔civilizing indifference〕であり、それなくしては寛容は問題のあるものとなり理想への熱狂が再来する。フロイトが昇華の名の下に試験的に説明しようとする並外れた人間の業績では、性的なものは真正に非性的なものを作り出し、諸関心や諸活動はナルシス的な蒸留物〔distillation〕なのである。

 そのような昇華概念の必然的な帰結は芸術の精神分析的批判〔criticism〕として一般的に認識されていたものの放棄である。芸術家の昇華がうまくいけばいくほど、その作品の(解釈可能な)性的エネルギーの痕跡は少なくなる。自我関心の非特異的な性化もまた、芸術家の「思考」の主要な特徴の優位を想定することによって裏付けられるわけではない。フロイトがこれらの特徴を引き出す主要なモデル、すなわち夢のモデルは、あまりに原初的で私的な精神現象(それはもちろん複雑で難解な形をしているかもしれない)であるために、芸術的な制作において自我関心の性愛化〔erotisize〕を記述する我々の試みには役に立たない。現実の意識は芸術作品において性化されるのだが、それはメロドラマ的で統語論的〔syntactic〕な一次過程の混乱が説明できないような方法でなされる。したがって、その方法は芸術批判に開かれているのだが、それは性愛化された意識のある特殊な様式の記録として徹底的に精神分析的でありながら、しかしまさに精神分析自体はその動揺〔ébranlement〕を記述する言葉をほとんど我々に与えてくれなかったという確信において明確に非精神分析的なものであろう。精神分析の語彙は大方は自分自身の発見を飼い慣らす〔domesticate〕ように指示する。語彙に関していわばある種の禁欲的保留地〔reserve〕を保持しておくことではじめて、我々は文化に対する精神分析的な観点を維持できるのである。

 少なくとも文化研究において、我々の昇華理論はこのようにしてそれが基づいている学問分野を無視する傾向にあるのかもしれない。たとえ私が芸術を読解する方法を誰よりもフロイトが決定しているのだとしても、彼の理論は私にとって、彼の著作における理論的な失敗や衝突の様式、すなわち主張が洗練されるとともに脱定式化〔disformulate〕するプロセスを追跡する経験と比べると重要ではない。フロイトのテクストは頻繁にその理論的一貫性を犠牲にしているが、そのことによって我々はフロイトの理論を読解するという困難な経験の結論として彼の理論を再述することに導かれるはずである。フロイトの著作はこれらの人間のディスクールの混乱の模範的な一例であり、もちろん彼の著作はその混乱を体系的に説明することを試みている——精神分析はそれらの混乱を我々が美学と呼ぶものに決定的なものとして正しくも認識しているのではあるが、いくぶんかナイーブに同一視している。私がたった今言及した理論的な結論は、私が思うに、理論的な位置〔position〕のなかに固定化するべきではなく、芸術作品の前景にある理論的な〔disposition〕として機能すべきである。そしてこれらの気質のなかに、私は進歩の仮面を被った反復を見つける準備〔readiness〕、すなわち対象から逸れること(ナルシシズム論の結論はここに明確である)、そして物語の秩序を信頼しながら同時に拒絶もすることを含めたい。私自身の仕事において、私は、いわゆる精神分析的なアプローチの通常の兆候が批評的な仕事に見られないときでさえ、そのような気質がどれくらい広範囲に批判のなかで機能しうるかを示そうと思っている。最後に、私がこれまでこれまで言ってきたことに部分的に反抗して、これらのあらゆる気質をより認識可能な精神分析のランガージュのなかに一時的に固定化して、芸術においてはナルシシズムマゾヒズムの間の秘密の同一性は表象的な企図〔representational projects〕の転覆的な性愛化として実行されていると言ってみたい。

 しかしながら、我々が見てきたように、フロイトナルシシズム論は文化の分析とはまったく異なったことを指摘している。最終節で提示された昇華理論はそれ自体、抑圧されていない性的エネルギーが備給された自我関心という別の昇華の見解の抑圧的で理想化した昇華である。フロイト思想の歴史、より広く言って精神分析それ自体の歴史は、性的なものの精神分析的な定義の抑圧の歴史である。文化の獲得を発達における混乱の曖昧にも成功した修復的〔reparative〕反復として扱う方が、それらの獲得をマゾヒズム的享楽の伝達不可能で解釈不可能な強度によって持続されたものとして捉えるよりも受け入れやすかったように思われる。人間のセクシュアリティにおける他者への本質的な無関心と呼ばれうるものを恐れて、フロイトは一次ナルシシズムという彼の理論を、ナルシス的な快自体は対象関係の派生物だと思われるように定式化することで、再解釈しようとしている。私はここで、また『フロイト的身体』でも主張してきたのは、フロイトの最も独創的で思弁的な動きは性的なものを間主観性のカテゴリーとして脱構築することであり、他者からの向け変わりでもあり自己の死滅でもあるものとして性的興奮の定義を提示することであった。死滅を懇願すること、すなわち一貫性をなくして破粋された欲望はおそらく精神分析が最も激しく抑圧しようとしてきたものである。しかし生から比類のない死滅への快を除外する衝動によって、その快は道徳的マゾヒズムとして限りなく危なっかしく理想化することへと導かれた。不十分に抑圧され不十分に満足された性的なものの動揺を更新する欲望はこのようにしてそれ自体に嫌悪を向ける〔turn against〕ことでそれ自体を繰り返す。すなわち、自己破粋は怒りに満ちた攻撃性に向かい、自己同一性の興奮した解体は単なる生物学的な死を望むことへと格下げされる。

 最終的に、そして私の出発点に立ち戻ると、フロイト自身が「性格と肛門性愛」での思弁のなかでおそらくそのような変容に最も感受性のある時〔moment〕を突き止めていた。それはまるで拒絶や滞留として性的な快が経験される発達のまさにその時に我々が性的なものを否定する誘惑に最も脆弱であるかのようである。フロイト肛門性格として記述しているもののなかで、我々は拘束されていないセクシュアリティとその残虐な抑圧との間の完全な同一性の独特な布置〔configuration〕をもっているのかもしれない。肛門性[anality]は性的なものと死の親和性を最も緻密に文字通り解釈〔literalize〕しているセクシュアリティの様式である。肛門性において性的興奮の動揺は重度の破壊の幻想へと促進され、ある意味では昇華される。肛門性格特徴は陰性化〔negativize〕された肛門のセクシュアリティであり、その陰性化——個人的で社会的な秩序への衝動の事例としての陰性化——は、修復〔reparation〕として、実際にはほとんど汚染された爆発性〔explosiveness〕への和解〔atonement〕として提示されうる。しかしながら潜在的に残虐な秩序との和解は文字通り歴史的に罰されてきた幻想的な壊滅状態〔devastation〕を繰り返すだろう。肛門性の激しさによって活気づけられた贖罪〔redemption〕の文化は死の文化である。

レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(4/5)

 成人の生活において「原初的な自我のリビドー備給」の徴とは何であろうか。フロイトは「ある種の特別な困難が(中略)ナルシシズムを直接研究する方法のうちに横たわっている」と主張するため、主体は病理的な混乱、器質性疾患〔organic disease〕や「男女の愛情生活」〔the erotic life of the sexes〕の助けを借りてアプローチしなければならないだろう(SE14:82, 『全集』13巻、127-128頁。)。一次ナルシシズムの存在とその重要性についてのフロイトの証拠はますます一般的になり、彼の中心的な関心はナルシシズムと正常な自己の創出との間に打ち立てられる関係性に向けられる。第三部でフロイトは「抑圧の心理学」に立ち返り、正常な成人の自我リビドーに何が起こるのかを発見しようとする。「リビード的な欲動〔instinct〕の蠢きは、主体の文化的な考え方や倫理的な考え方と葛藤状態におかれると、病源的な抑圧という運命を経験する(中略)抑圧は、我々が見てきたように、自我から生じる。あるいは正確さを期して自我の自己尊重から生じると言ってもよいかもしれない(SE14:93, 『全集』13巻、141頁)。まったく新しい何かがここで出現し始めている。それは自我の道徳的価値への傾向という考え方である。そしてフロイトは構造上その考え方を解釈しているかのようである。その傾向は二つの用語を示しており、私が引用した段落の終わりで、自我の自己尊重と主体の文化的・倫理的思考は実際の自我とそれを評価し判断する理想との関係性になる。その基礎は周知の通り『自我とエス』に据えられている。

 そのような関係はどのようにしてナルシス的なのであろうか。フロイトは抑圧に関する早期の議論のなかで、リビドーの蠢きとそれに対立する文化的・倫理的思考との葛藤を強調している。ところが彼はこの葛藤から別の・・リビドー的関係を推論している。それは自我と、リビドーの充足に対立するそれらの思考や理想との関係である。

この理想自我はいまや幼少期に実際の自我が享受した自己愛〔self-love〕の目標である。主体のナルシシズムは、幼児の自我のように貴重なあらゆる完全性を保有しているこの新たな理想自我に置き換えられて出現する。リビドーが関係しているところではいつものように、ここでも人間はかつて享受した充足感を断念することができないということが示されている。人間は幼少期のナルシス的な完全性をなしですませようとはせず、成長して他者の忠告や自身の批判的判断の目覚めによって秩序が乱され、もはやあの完全性を保持することができなくなると、人間は自我理想という新たな形式でその完全性の回復を求めるようになるのである。人間が自身の前に理想として投射するものは自分自身の理想であった幼少期の失われたナルシシズムの代理である。(SE14:94, 『全集』13巻、141-142頁)

ここで記述されたナルシシズムの回復とは実際にはナルシシズムの根本的な変換である。フロイトが早期に記述した一次ナルシシズムは遡及的に道徳化される。幼児の自我は本当に「貴重なあらゆる完全性を保有」していたのだろうか、あるいは私が推測したようにその幼児の自我はある種の欲求の再帰〔appetitive reflexiveness〕によって生み出されるのであろうか。幼児のナルシシズムは「自己保存欲動のエゴイズムをリビドーによって補完」するものであり、また別の観点から言うと、心的な統一性の地位に「昇進」した自体性愛、すなわち個体化〔individuation〕という性化の原則の役割を自体性愛が果たしていくプロセスなのである。これは「ナルシシズムの導入に向けて」の第三部で幼児のナルシシズムと同一視〔identify〕される倫理的な自己認識〔self-appreciation〕とはかなり異なっている。その同一視によって、フロイトは自我と理想的な自我の型との関係を一次ナルシシズムの復活と等しいものとみなすという不調和を覆い隠すことができるのだ。

 さらには「理想自我」はそれを愛する主体に付随しているわけではない。この「幼少期の失われたナルシシズムの代理」は外から課せられるものであり、実際には主体の快に敵対するものである。「良心が見張り役を務める自我理想の形成を主体に促すものは、声を媒介して伝えられた両親の批判的な影響に由来している。時が経つにつれ、教育者や教師や環境にいる他のあらゆる人、周囲の人といった不特定多数の人々や世論がそれに付け加わる」(SE14: 96, 『全集』13巻、144頁)。この一節の少し手前で、フロイトは検閲する審級〔agency〕を次の方法で導入している。「我々がある特別な心的審級を見出しても驚くことはないであろう。その審級とは、自我理想によるナルシス的満足が確保されるのを見守る任務を果たし、この目的のために実際の自我をたえず注視しその理想によって評価するものである」(SE14:95, 『全集』13巻、143頁)。言い換えれば、ナルシス的満足は義務となってしまい、「上位〔superior〕」の異質な自己から獲得されなければならない。どうして自我理想とフロイトがのちに超自我と呼んだものとの心的境界が曖昧であるとしばしば言及されるのかはたやすく理解できるだろう。超自我の理論は自我理想の現象学なのである。すなわち、それは理想の経験を内面に隔たる罪の意識として記述することである。

 一次ナルシシズムのこの逆説的な復活——そこにおいて自我は罪深いために、より優れているある理想を愛することで快を見出すことを命令するのだが——は、一次マゾヒズムの歪曲した反復でもある。セクシュアリティは一次マゾヒズムの反復であるという主張を私は先に述べていた。この種のマゾヒズムは自己処罰〔self-punishment〕と何の関係もない。性的なものの構成としてそれを語ることは、幼児がその心的安定性の破粋を快の源泉として繰り返すことを求めるとりわけ人間の適応機制を記述する一つの試みである。しかしながらナルシシズムに関する論考はマゾヒズムとは完全に異なっており、そこでは自我の自己非難〔self-condemnation〕が快として経験される。「自我理想によるナルシス的満足が確保」されるのを確認することで、フロイトが語るその「特別な審級」は道徳的マゾヒズムというナルシシズムを永続させる。

 もちろんある意味で、自我理想の概念は人間のセクシュアリティにおける対象の重要性を肯定し、その一方で一次ナルシシズムは世界と私たちの関係の本質的な反乱分子として考えナルシシズムの重要性というフロイトの発見は、人間のセクシュアリティとおそらく性的欲望によって奉仕された人間関係との間の裂け目という彼のかなり初期の発見を再確認するものである。「ナルシシズムの導入に向けて」の「男女の愛情生活」の議論のなかで、フロイトは対象愛の様々な類型におけるナルシス的欲望をあらわにしている。彼はこう記述している。「リビドーの発展がなんらかの妨害で困難に陥った人、例えば倒錯者やホモセクシュアルの人々などは自身の母親ではなく自分自身をモデルにする」。フロイトによるとほとんどの女性はナルシス的に愛するようだ。そして異性愛男性の対象愛は自らが断念したであろうナルシシズムへのノスタルジアによって部分的に動機付けられている。強度にナルシス的な女性(この点において子供、文学作品の偉大な犯罪者、「猫や大型の肉食獣」と似ている)は「男性にとって最大の魅力をもつ。それはあたかも至福の精神状態——あとから自分自身で手放してしまった度し難いリビドー配置——を保持しているために彼らを羨んでいるかのようである」(SE14: 89, 『全集』13巻、136頁)。こうして最も最良の場合(フロイトの用語ではエディプス以後の性器的な異性愛〔post-Oedipal genital heterosexuality〕の場合)では、。自体性愛から一次ナルシシズムの動きは唯我論的な享楽の構造的安定性を与えることで人間のセクシュアリティの自己目的的〔autotelic〕な性質を強化する。

 しかしフロイトナルシシズム論の冒頭で大まかに記述した一次ナルシシズムは、我々の愛情生活の関係を開始させ、のちにそれを維持することを助ける。一次ナルシシズムは幼児の自我が破壊〔destoroy〕されるのではなくマゾヒスティックに破粋〔shatter〕されることを可能にする。それはもしかしたら幼児の環境を性愛化する爆撃に対する幼児の最大の性愛的な防衛なのかもしれない。ナルシシズムというパラドキシカルな形式においてその環境を破粋する刺激を繰り返す。一次ナルシシズムは幼児の自我がその自我を「貴重なあらゆる完全生を備えている」と知覚することとはなんら関係するものではなく、一次ナルシシズムは性的に破粋される能力〔capacity〕への自我の(非倫理的な)認識〔appreciation〕である。それによって主体はサドマゾヒスティックではない世界との関係に参入することができるようになる。この適応性の情熱的な形式と対比して、人間の発達の不可解で機能不全的な側面は、自我の自身の性愛的な価値への拒絶や反性愛的〔antierotic〕な理想への意欲的な服従なのかもしれない。フロイトが記述するには、一次ナルシシズムからの自我の展開は「外部から押しつけられた自我理想へのリビドー遷移によって生じ」、それに彼は驚くことにこう付け加える。「満足はこの理想が充足することで生じる」(SE14: 100, 『全集』13巻、149頁)。フロイトの論考の最後のページでは、一次ナルシシズムの「回復という激しい希求」はこうして一次ナルシシズムからの展開とまさに一致するものとして定義される。それにしたがうと、一次ナルシシズムの満足はその満足を消し去るプロセスそのものに依存し、それによって定義されるだろう。自我理想のナルシス的な愛は脱リビドー化されたナルシシズムなのである。

 これらすべては昇華とどんな関係があるのだろうか。ナルシシズム論の第三部の二つの極めて興味深い段落のなかで、フロイトは「自我理想の形成」と「欲動の昇華」を区別する重要性を主張している。それはまさに昇華に抗して働く自我理想の要求である。自我理想は性的な蠢きを抑圧へと駆動〔drive〕する。「理想の形成は(中略)抑圧を援護する最も強力な機能」である。その結果、それらの蠢きはその原初的な形態において無意識のなかで昇華されないままである。他方、昇華は「出口なのであり、抑圧を[自我の]要求を満たすことができる方法」である(SE14: 94-95, 『全集』13巻、143頁)。しかし、我々が確認すべきなのは理想化によって汚染された昇華の存在の可能性である。フロイトは議論のなかで二つのプロセスにはっきりとした区別を設けたが、すでにその議論はそれらの概念の境界の曖昧さに基づいて築かれていた。だから一次ナルシシズムが「高い理想への敬意」に取り替えられる方法に関する彼の記述は、彼の著作のいたるところで見られる昇華の説明の記述と直接的に類似していると言えるだろう。この取り替えによって、欲動〔instinctual〕のナルシシズムは性目標(「自我の原初的なリビドー備給」からの満足)を非性的な目標(理想自我の要求を充足させることからくる満足)と取り替える。より正確に言えば、ナルシシズム論で概略された自我と理想自我の関係は二つの段階で生じるものだと考えられる。対象は「主体の精神のうちで誇張され賛美」され(これは理想化であろう)、主体のナルシシズムは最初の目標を交換し、自我が賛美された内面化された対象の要求を満たすならばそのナルシシズムは満足させられる(これは昇華であろう)のである。強調すべきことは、二つ目のプロセスは最初のプロセスに影響を受けないではいられないことだ。理想自我の基本的な要求は自我がそれにふさわしい存在であるために脱性化されることである。フロイトが記述するように、その理想が「幼少期に実際の自我が享受した自己愛〔self-love〕の目標」になることになっているとすれば、自己愛それ自体の性質は変転されねばならない。あるいは別様に言えば、目標の変転はナルシス的欲望のその本質の変転から切り離すことはできない。その理想的な類型に対する自我の関係において、ナルシシズムはそれ自体理想化され、より崇高なものに昇華される。理想自我に対する自我の関係はそれに続く理想化と脱性化を行うあらゆる昇華の基礎となるものである。

レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(3/5)

 一見、最初は無関係に見える論考を議論することから私はこの疑問に取り掛かりたい。文化活動の非特異的な性化の考え方を追及することに対してフロイトが及び腰であることは、彼の初期の性的な快の理論に対するより決定的な拒否と関連して理解されるべきである。そしてその拒否は、間接的であるが不可逆的に彼のナルシシズムに関する思索と自我の構成によって生じた。フロイトは、1914年の「ナルシシズムの導入に向けて」という論考の冒頭で、ある種のナルシシズムは「倒錯ではなくあらゆる生命体にもある程度は備わっていると正当にも認められるであろう自己保存欲動のエゴイズムをリビドーによって補完するものである」と論じている。それゆえ「自我に対する原初的なリビドー備給」あるいは「一次的で正常なナルシシズム」があるだろう(SE14: 73-75, 『全集』13巻、118-120頁)。ある面では、精神分析の歴史におけるランドマークと考えられるこの新たな概念は、フロイトのかなり古い思想に遡る。1905年の『性理論のための三篇』のなかで、セクシュアリティは自体性愛的に開始されるとフロイトは主張している。セクシュアリティは対象関係(母親の乳房に対する幼児の関係)の始まりから生じるのかもしれないが、フロイトが提起するのは、とりわけその関係の性的な性質は対象に対する無関心を示唆しているということである。セクシュアリティの起源において、乳房は温かいミルクが唇を通って消化管に流れ込む刺激によって引き起こされる快とは無関係である。我々は、フロイトが忠告するように、自分の思考のうちに存在する欲動と対象との結びつきを緩めるようにしなければならない(SE7: 148, 『全集』6巻、188頁)。

 ナルシシズムに関する論考のかなり序盤で、フロイト自身もこれらの指摘が指し示す疑問について自問する。「我々がいま述べたナルシシズムは、リビドーの早期状態として記述した自体性愛とどのような関係であるのだろう」。その回答は部分と全体の違いと関係がある。「自我に匹敵する統一体は最初から個人のうちに存在するはずがない、と我々は想定せねばならない。自我は発展されねばならない。しかし自体性愛的な欲動は最初から存在している。したがって、ナルシシズムが生じるためには、自体性愛に何かあるもの、ある新たな心的作用が付け加えられねばならない」(SE14: 76-77, 『全集』13巻、121頁)。これは自我と性欲動が別々の道で発展することを示しているように見える・・・・・・。我々はまず自我によって形成された心的統一体をともなわない自体性愛の状態であるだろう。そして何かある別の活動が主体のうちに生じて、愛されうる自我が構成されるのだろう。しかし、フロイトの言い回しにはある種の曖昧さがみとめられる。(ナルシシズムが存在するためには)「自我は発展されねばならない」と断言しながら、フロイトは「ある新たな心的作用」が自体性愛に付け加えられねばならないと詳述する。これは自我——それはここでは詳述されないが発達の過程によって構成されるものである——がナルシシズムの必要条件であると主張するのとは決して同じことではない。この短い節の最後の文はという可能性を提起している*1

 我々はここで『性理論のための三篇』においてフロイトが性的な快を快感—不快〔pleasurable-unpleasurable〕の緊張と関連させていることに立ち帰るべきである。その快はフロイトがもちろん性器的セクシュアリティ〔genital sexuality〕と関連させる緊張放出の快とは大きく異なっている。『性理論のための三篇』でフロイトにとって最も悩ましい問題——それは『フロイト的身体』で私が長々と述べた問題であるが——は、主に性器的なもの〔genitality〕と同一視されるような欲望とは異なり、「満足」の消滅を求めるのではないある種の欲望を説明することである。セクシュアリティの快感—不快の緊張、すなわち自己破粋〔self-shattering〕の興奮という痛みは、それだけでなく持続され、再現され、さらには増幅されることをも目指すのである。人間主体は原初的にセクシュアリティの状態に破粋される・・・・・・・・・のである。『性理論のための三篇』のなかでフロイトはマゾヒスティックに享楽される心的平衡状態の擾乱という性的興奮の定義に向かったり退いたりを同時にしている。少なくともそれが構成される様式においてセクシュアリティマゾヒズムトートロジーなのかもしれない。

 ナルシシズムの概念はその定義を拡大したものだと考えられる。それはセクシュアリティの内在的に唯我論的な性質、また対象や器官特性〔organ specificity〕に対する相関的無関心〔correlative indifference〕のようなものであり、自体性愛の発展によって可能になる。そこでは快の源泉と、したがって欲望の対象はまさに動揺・・〔ébranlement〕あるいは自己破粋の経験になる。この経験を繰り返す要求は原初的昇華として、対象に固着した活動から別の「高度な」目標への性欲動〔instinct〕の最初の屈折として考えられる。「高度な」とはここではしかしながら償い〔reparation〕や修復〔restituition〕の含意はまったくない。そうではなくそれは分裂した対象から全体性への根源的かつ非常に重大な運動、自己再帰性〔self-reflexiveness〕を形成する段階で生じる運動を意味している。それは意識のうちで引き起こされるある種の分割であり、逆説的にも同時に最初の自己統合〔self-integration〕の経験でもある分割のようなものである。この自己再帰の運動のなかで快楽的に破粋された意識はその欲望の対象に気づくようになる。性愛エロース化された意識の活動を繰り返すことは新たな目標となり、その目標はある特定の活動(母親の乳房を吸うことや糞便を溜めておくことのようなもの)を繰り返すという目標に取って代わる。

 原初的な昇華はあらゆる性的欲望を開始させる様式として考えることもできる。その性的欲望が純粋かつ抽象的に目標とするのは、快楽的で苦痛な反響する緊張自体を繰り返すことであり、その緊張を最初に生産したかもしれない行為を繰り返すことではない。おそらくこのような推測において昇華理論を基礎付けることではじめて、昇華のプロセスと症状や反動形成のプロセスとの間の区別を保証することができる。というのも原初的昇華のエネルギーは定義上非固着的なエネルギーであるからだ。欲望の対象はいかなる対象関係の享楽・・〔jouissance〕においても無対象であることを示しているだろう。その結果、もちろん昇華されたエネルギーはそれ自身特定の自我関心や諸活動に結びつけられる。しかしそのような昇華の理論的枠組みは、性的興奮をそれが依存している事態〔occasion〕から蒸留する企図である。昇華はただ二次的に——さらに言ってそれは必然的ですらないのだが——高尚なものにする、あるいは崇高〔sublime〕なものにする。もっとも重大なのは、昇華は事態〔occasion〕を焼尽することであり、少なくともなのである。昇華は性的なものの超越などでは決してなく、不純なきセクシュアリティに基礎付けられている。昇華の概念はしたがって非固着的な性的エネルギーの運命を単に記述していたのではなく、おそらく特に芸術のようなある種の文化活動におけるそのような運動を記述していたのである。それは文化活動の物質性をある程度溶解し、その諸形式と自己同一性を曖昧にすることで純粋な興奮の経験を一瞬の間可能にする。

 昇華されたエネルギーは本質的に非参照的〔nonreferential〕である。それは単に昇華されたエネルギーが抑圧を免れ、それゆえ古い目標や対象の代理を見出そうとする衝動が最小限の状態で新たな目標や対象に結び付けられるという理由で非参照的なだけでなく、そのエネルギーがもともと参照のない快によって動機付けられているという理由で非参照的なのである。あらゆる昇華が発現するモデルはそれ自身を性化する潜在力を追求する意識にある。それはまるで内省を通してセクシュアリティを開始する展望に魅了〔fascinate〕されてしまうようなものであるため、特定の目標や対象からまぬがれているわけではない*2。私が提起したいのは、それは「ナルシシズムが生じるために(中略)自体性愛に付け加え」られた魅力〔fascination〕だということである。フロイトが一次ナルシシズムと呼ぶものを作り出す「新たな心的作用」は自体性愛の昇華である。今や我々は理解できるのだが、最初のナルシス的な愛は必然的にマゾヒズム的なものなのである。後の二次的なマゾヒズムが苦しめられ(汚染される)罪悪感のような道徳的構成要素を完全に欠いているので、一次的でマゾヒスト的な欲望は単に純粋な動揺・・という恍惚の苦しみを繰り返すことを求めるであろう。。自我はその起源において、それ自身の解体を見越した快によって必要とされた情熱的な結論の一種にすぎないだろう。精神分析では最初の自我は一つの性愛エロース的な自我であり、それは性愛エロースの引き受け〔erotic assumption〕によって構成されたのである*3

*1:(原注)ラプランシュは私がここで展開した考えと一致するようなものを提示しているように思われる。彼は1914年のナルシシズム論におけるフロイトのテーゼを要約するなかでこう書いている。「自我へのリビドー備給は人間の自我の構成そのものから切り離すことができない」Jean Laplanche, Vie et mort en psychanalyse (Paris: Flammarion, 1970), p. 116、ジャン・ラプランシュ『精神分析における生と死』十川幸司、堀川聡司、佐藤朋子訳、金剛出版、2018年、132頁。

*2:(原注)「まるで〜ように」と私がここで言葉を和らげるのは、「魅了される〔fascinated〕」や「内省〔self-reflection〕」といった用語はこうした意識を記述するには現象学的に不正確であらねばならないということを指し示すためにである——しかしながら我々とフロイトのメタサイコロジー的思索は意識の原始的な状態におけるある種の持続性を想定しているのであるが。そのような状態ははるかに発展した精神構造における不適切な複製物から推察される。ナルシシズムの論考で、その「証拠」は透徹して思弁的な主張に先立つのではなく、思弁的な主張の後で述べられる。まさにこの順序が強調しているのは厳密に言うと証拠がないことに対して膨大な証拠があるというパラドックスである。

*3:(原注)コフートセクシュアリティと自己〔self〕の関係の全く違った見方を示している。彼にとって——これは欲動を重視するフロイト派の側からの強い抵抗を導くことになるのだが——早期の発達の「核心」〔bedrock〕は去勢不安にあるのではなく、むしろ中核的自己〔nuclear self〕に対する脅威にある。性的なものは自己-形成〔self-formation〕や自己-確証〔self-confirmation〕に対して本質的に二次的なものである。フロイトが欲動の運命〔instinctual vicissitude〕と呼んだものは、コフートにとって基本的に[原書ではesentiallyとされているがessentiallyの誤植か]自己の扱われ方に対する反応・・であり、それは自己が「鏡映する自己-対象」〔mirroring self-object〕によって裏付けられているかどうかに関わらない。非病理的なセクシュアリティは身体的自己の感覚を「固める」〔firming up〕ことである。これはもちろん自我形成の構成としてのセクシュアリティというこの章で主張された考え方とは対立している。Heinz Kohut, The Restoration ofthe Self(New York: International Universities Press, 1977)〔邦訳:ハインツ・コフート『自己の修復』本城秀次、笠原嘉監訳、みすず書房、1995年〕を参照せよ。
 このような考えはひょっとすると一次ナルシシズムと一次的な対象備給〔object investment〕が同時に起こるというカーンバーグのテーゼに近いのかもしれない。彼は一次的で未分化の自己-対象の表象を仮定しており、それゆえナルシシズムと対象備給は同時に発展する。しかしこれはカーンバーグが指摘するように、コフートの理論とも古典的な思想とも異なっている。Otto F. Kemberg, Borderline Con­ ditions and Pathological Narcissism (New York: Aronson, 1975)、とりわけ第十章を参照せよ。カーンバーグの著作に対する興味深い「古典的」な異議はMilton Klein and David Tribich, “Kemberg’s Object-Relations Theory: A Critical Evaluation,” International Journal of Psychoanalysis, 62, part 1 (1981)に見られる。
 ナルシシズムに関するいくつかの価値のある論考についてはNouvelle Revue de psychanalyse, 13 (Spring 1973)の「ナルシシズム」と題された論考を参照せよ。