動物磁気の系譜まとめ
対象関係からみる動物磁気の系譜まとめ。
フランツ=アントン・メスメル(1736-1815)
ウィーン大学医学部の医師であったメスメルはその教義や治療法の突飛さによってオーストリアから追放され、1778年にパリに転地した。彼は普遍的流体(un fluide universel)の理論を構築し、病気は人間の体内における流体の不均衡に由来すると考えた。メスメルは磁気術によって「分利」(crise、要するに発作)を誘発し、流体を調和させることで病人を治療できると考えていた。この治療法は鉱物磁気を人間に適用したものであるために動物磁気(magnétisme animal)と名付けられ、その発明家の名にちなんでメスメリズムとも呼ばれる。メスメルは「交流」(rapport)という概念を用いており、ここに対象関係論の源流を見出すことができる。しかし、まだ心理学が花開く以前の電気や磁気が花盛りであった時代に頭角を現したメスメルにとって、治療者と患者の交流をもたらす作用因はただ磁気流体(fluide magnétique)のみに求められ、情動的要素はほとんど考慮に入れられなかった*1。メスメルは治療者と患者の関係を一方的な支配関係に置き、また患者に「言語的対話」(dialogue verbal)を禁じ、分利のような「身体的対話」(dialogue somatique)のみを許すことによって、ともすれば性愛に発展しやすく、そうした非難にさらされていた治療関係において患者との個人的な関わり合いを避けていたようにも思われる。
バイイの報告(1784)——動物磁気への批判——
メスメルの理論は当初から科学者の間で疑いをもたれていた。メスメルに関する論議が喧しくなった頃、ルイ16世は動物磁気の研究のために二つの委員会を設置した。一つは王立医学協会(Société Royale Médecine)(のちの医学アカデミー)である。この節で扱うのはもう一つの科学アカデミー(Académie des Sciences)のメンバーから発足した委員会である。メンバーには、バイイ、ベンジャミン・フランクリン、ラヴォワジェなどがおり、当時の科学界の権威が集結している。両委員会は動物磁気に関する報告書を提出したが、どちらの報告書でも動物磁気は非難され、あらゆる流体の存在も否定されている。バイイは磁気術の効果を「想像」(imagination)によるものと考えた。ここには対象関係の心的作用の実在が勘づかれているが、彼はそれを科学の対象として積極的に取り扱うことはなかった。バイイは公的な報告書に加えて、国王に極秘報告書を提出している。そこで注目されるのは、磁気治療に性愛的な効果をみとり、磁気治療を風紀を乱すものと結論づけている点である。この極秘報告書によらずとも知識人たちの間ではメスメルの動物磁気に伏在する「性的な危険性」を疑われていた。したがって磁気術師たちが治療のファクターのうち情動を低く見積もりもっぱら磁気という物理学的なファクターに執拗なまでに依拠していたのも、こうした道徳的非難に対する抵抗の表れと見ることもできるかもしれない。バイイに代表される道徳的非難はそれに対する抵抗という形で磁気術師たちの主張を運命づけるものであった。
ピュイゼギュール(1751-1825)
メスメルの高弟ピュイゼギュールは、患者の行動は完全に停止するのに治療者との対話能力が残る「磁気夢遊病」(somnambulism magnétique)を最初に記述した人物である。彼はしたがってメスメルとは異なり患者との対話を排除せず、治療は患者を完全に従順な退行状態に置くことが目指された。彼も流体論者であることには変わりないが、磁気のみならず第二の要因として情動的要素をもすでに考慮に入れていた。また彼は分利によって次第に患者の夢遊状態は減衰していき、最後には病気とともに消失し、それ以後は磁化への感受性も消え去ると考えていた。要するに、患者に磁気催眠が効かなくなることは治療の成功であり、そこで患者の治療者に対する依存は解消される。精神分析の用語で言えば、「転移」(Übertragung)とその解消にあたるものをピュイゼギュールは捉えていたと言えそうである。
ドゥルーズ(1753-1835)
シュルトーク、ド・ソシュールによれば、ドゥルーズは流体論者の磁気術師たちのなかで最も優れている著作を著した(NP:31)。ピュイゼギュールの弟子ドゥルーズは先に触れたバイイの主張に代表されるような道徳的非難を強く意識していた人物である。ドゥルーズは治療関係における情動的な「交流」をはっきりみとめていたが、それは性愛の感情とは全く異なるものであると主張した。彼によると、治療で生じるのは「穏やかな愛着」(tendre attachement)でありそれは治療の終結とともに解消される。彼は治療の開始に「交流」が必要であることを論じているが、やはり磁化(催眠)において感情は物理的次元に対して副次的なものとみている。
シャルル・ド・ヴィレール(1765-1815)とジュリアン=ジョセフ・ヴィレー(1775-1846)
次に動物磁気における物理的次元と情動的次元の上下関係を転覆させた二人の人物について。
メスメル-ピュイゼギュール-ドゥルーズの正統派が、情動的なファクターによる対象関係の考え方を退けた、あるいは気づいていながらも物理学的なファクターに対して副次的なものだとみなしていたのはすでに論じたとおりである。ここで時代を遡り別の文脈に注目してみると、ド・ヴィレールが治療において対象関係を真に扱うことの必要性を説いていることが確認できる。
ド・ヴィレールには『愛の磁気術』(1787)と題する小説がある(当時まだ21歳!)。この書は対象関係を治癒のファクターとして扱った最初の書物である。彼は流体にいかなる役割も与えず、磁気術の物理的次元における効力を認めなかった。ド・ヴィレールにとって、治癒とは治してもらいたいという患者の治癒への情念(passion)と治そうとする治療者の情念という二つの情念の出会いによって生じるものである。彼は物理的次元よりも、対象関係における情動的作用の効果を重視しており、すでに治療者と患者の相互的関係に気がついていたのである。このド・ヴィレールをもって——時代に先んじるが——磁気術から暗示(suggestion)への移行が準備される。
医師ヴィレーは1818年の医学辞典第24巻の「磁気医学の公正な検討」という項目を著した。動物磁気の効力に相互的なもの(réciproque)の作用があること明記しているので、孫引きの形にはなるが引用したい。
動物磁気の名で表されているものは、個人と個人の間に時として生じる一種の相互的な影響(une influence réciproque)のことで、これは意志や想像によるものであれ身体的感受性によるものであれ、交流の調和に従う相互的影響である(NP:39-40)。
ド・ヴィレールとヴィレーは精神分析において「転移-逆転移」と呼ばれるような、治療者と患者における相互的な情動作用の存在(対象関係)を認めていたのである。
ファリア(1755-1819)とベルトラン(1795-1831)
最後に、のちにナンシー学派が発展させる暗示の理論の創始者とみなされる二人の人物について。
ポルトガル人の司祭ファリアは1813年にパリで流体論に対して革命的な態度を取るようになった。治療者に特別な力はなく、すべては患者の精神のなかで起こると主張した。技術の改革としては、催眠のために患者の視線を一つに固定させる方法、言語的暗示(「眠りなさい」「目覚めなさい」)を与える方法を用いた。
理工学校出身の医者ベルトランはもともと流体学派に属していたがのちに反対し、ファリアと近い考え方を提出する。彼は夢遊状態の諸現象は磁気術師の想像力ではなく、患者の想像力に求められると考えていた。夢遊状態において患者が治療者の話しか聞こえない選択的関係も、赤ん坊を世話する母親が睡眠しながらも赤ん坊の声にだけは反応する事態と等しいとして、ベルトランは睡眠と催眠を類似したものだと考えている。
以上が動物磁気の系譜である。動物磁気は電気や磁気が隆盛する時代において発見された対象関係による治療法を科学的な理論として提出するものとして出現し、当初その作用因である情動的な影響は、動物磁気が性愛の要素を含んでいるとの非難に対して磁気術師たちは抵抗を図っていたために、無意識に抑圧されていた。ところが次第に治療効果における情動的因子の役割があらわになっていき、むしろ磁気そのものは交流のための手段にすぎないことが理解され、暗示や催眠の時代に移行していくのである。以後、動物磁気の語は、ジェイムズ・ブレイドによる「催眠術」(hypnotisme)の導入とともに棄却されることとなる。
レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(5/5)
精神分析はいかにして自我について語るのだろうか。私が思うに、これはフロイトのナルシシズム論によって生じた主要な問題であり、その問題に答える方法は昇華の理論に重要な結果をもたらす。ある時には、私が主張したように、フロイトの仕事のなかで昇華は一次ナルシシズムの性愛的自我〔erotic ego〕に基礎付けられていて、また別の時には昇華のモデルは自我理想に対する自我のマゾヒスティックな関係であるように見える。ナルシシズムのこの二つの見解の対立的な状況を議論することで、私は一方が他方に比べて心的現実の記述としてより有効であると主張したいわけではない。「ナルシシズムの導入に向けて」は早期の自我形成の運命に関する記述として読むことができる。フロイトはまず最初に性的興奮の結果による自我の危機について論じているように思われる。その原初的状態において、自我の安定した構造が誕生することは望まれているだろう。そしてフロイトは自我が直面せざるをえない間主観的な危機に対する説明を与える。両親の批判とその代わりとなるものに対処する戦略として、自我はその批判の源泉を内面化し、同一化することになる。この同一化は内的分裂を生ぜしめ、多かれ少なかれ無価値な自我は不法の欲望を抑圧して、検閲官の批判——その賛同者であるナルシス的な愛が今やそれに依存しているのであるが——を抑制〔stiful〕するだけでなく、自我とその理想の間にある裂け目を埋める。フロイトの議論の不合理さは自我の歴史におけるこれら二つの契機の間に打ち立てる連関にある。つまり、理想自我の形成は一次ナルシシズムの満足を回復させる試みのように思われる一方、理想の構成は一次ナルシシズムにより生み出された自我の抑圧的脱性化〔repressive desexualization〕に依拠しているということである。
「ナルシシズムの導入に向けて」においてどこか混乱しながら理論化されているのは、次の二つの立場の間でのフロイトのためらいである。それは、抑圧されていない性的エネルギーの自我関心〔ego interest〕への備給としての昇華の概念と、それとは全く異なる見解の二つであり、後者では昇華と症状形成や反動形成の境界が曖昧化されている。この最初の見解では、フロイトは昇華はつねにナルシス的に備給されていると提起している。これは自己愛の延長であり、より正確に言えば、これは広範なナルシシズムを含んでいる関心や活動なのである。昇華は決して自己関心〔self-interest〕の超越ではなく、自己享楽〔self-enjoyment〕の洗練された形式なのである。ナルシス的自己において自体性愛が繰り返され、体系化されるのとまさに同じように、一次ナルシシズムは我々の昇華の活動において回復され対象化される。遊び、仕事、芸術、哲学研究や科学研究の快は、それゆえ我々が愛する対象から逸れ、フロイトが主張するように、そこにおいて我々はセクシュアリティが発生した無対象的な享楽〔jouissance〕に戻るという観点から定義されなければならないだろう。
これは言及したそれらの諸活動が対象関係を含んでいないと言っているわけではない。精神分析的な用語において問題となるのは、むしろそのような関係性があらゆる種類の文化的昇華において我々の関心を動機付け維持する快の特異性を説明できるのかどうかという点である。フロイトの性的興奮の定義において極めて重要な対象からの逸脱は、セクシュアリティの最も親密で秘密の動き、すなわち我々が対象の世界に適応する方法にたびたび熱狂的に注目するなかで精神分析自体が抑圧しようとしてきた動きである。性的な快はナルシス的リビドーの自己目的性〔autelic〕であるのと同様に対象リビドーの自己目的性でもあろう——対象に対する欲望が昇華されていない関係において、対象が最終的には消滅する享楽に達するのならば、対象それ自体は不可欠なままであり、保持されなければならないのではあるが。フロイトが主張するように、もし昇華がナルシス的リビドーに起源があるとするならば、したがって昇華は対象への無関心〔disinterested〕な関係を必然的に暗示することになる。高等な目標という昇華の目標についての一般的な理解は、無関心を理想化することによってではあるが、この観点を裏付ける。私が主張しているのは対象に関する目標の変換——例えば性的欲望から友好関係や利他主義への目標の変換——は性的なものの抑制や超越に依拠しているのではなく、むしろ対象それ自体の変更に依拠しているということである。自己は独我論的にそれ自身で快の源泉や対象となってしまうのである。
昇華をこの方法で考えていくと、最終的に抑圧されていない性的エネルギーを昇華するというフロイトの論点を強調することになる。欲望の抑圧は、その対象からの解放では決してなく、たとえその対象への偽装された追及であったとしてもその欲望の永続化を強いるのである。昇華において、欲望の対象(リビドー的対象)は非性的な目標を追及する意識にほかならない。これは精神分析的イデアリズムというより精神分析的リアリズムと呼んでもいいかもしれない。最も注目すべき文化的獲得や道徳性は性的なものからの分離〔abstraction〕を確かに含んでいる。そしてこれが意味するのは我々の文化的獲得物や倫理的理想に対するある種の文明的無関心〔civilizing indifference〕であり、それなくしては寛容は問題のあるものとなり理想への熱狂が再来する。フロイトが昇華の名の下に試験的に説明しようとする並外れた人間の業績では、性的なものは真正に非性的なものを作り出し、諸関心や諸活動はナルシス的な蒸留物〔distillation〕なのである。
そのような昇華概念の必然的な帰結は芸術の精神分析的批判〔criticism〕として一般的に認識されていたものの放棄である。芸術家の昇華がうまくいけばいくほど、その作品の(解釈可能な)性的エネルギーの痕跡は少なくなる。自我関心の非特異的な性化もまた、芸術家の「思考」の主要な特徴の優位を想定することによって裏付けられるわけではない。フロイトがこれらの特徴を引き出す主要なモデル、すなわち夢のモデルは、あまりに原初的で私的な精神現象(それはもちろん複雑で難解な形をしているかもしれない)であるために、芸術的な制作において自我関心の性愛化〔erotisize〕を記述する我々の試みには役に立たない。現実の意識は芸術作品において性化されるのだが、それはメロドラマ的で統語論的〔syntactic〕な一次過程の混乱が説明できないような方法でなされる。したがって、その方法は芸術批判に開かれているのだが、それは性愛化された意識のある特殊な様式の記録として徹底的に精神分析的でありながら、しかしまさに精神分析自体はその動揺〔ébranlement〕を記述する言葉をほとんど我々に与えてくれなかったという確信において明確に非精神分析的なものであろう。精神分析の語彙は大方は自分自身の発見を飼い慣らす〔domesticate〕ように指示する。語彙に関していわばある種の禁欲的保留地〔reserve〕を保持しておくことではじめて、我々は文化に対する精神分析的な観点を維持できるのである。
少なくとも文化研究において、我々の昇華理論はこのようにしてそれが基づいている学問分野を無視する傾向にあるのかもしれない。たとえ私が芸術を読解する方法を誰よりもフロイトが決定しているのだとしても、彼の理論は私にとって、彼の著作における理論的な失敗や衝突の様式、すなわち主張が洗練されるとともに脱定式化〔disformulate〕するプロセスを追跡する経験と比べると重要ではない。フロイトのテクストは頻繁にその理論的一貫性を犠牲にしているが、そのことによって我々はフロイトの理論を読解するという困難な経験の結論として彼の理論を再述することに導かれるはずである。フロイトの著作はこれらの人間のディスクールの混乱の模範的な一例であり、もちろん彼の著作はその混乱を体系的に説明することを試みている——精神分析はそれらの混乱を我々が美学と呼ぶものに決定的なものとして正しくも認識しているのではあるが、いくぶんかナイーブに同一視している。私がたった今言及した理論的な結論は、私が思うに、理論的な位置〔position〕のなかに固定化するべきではなく、芸術作品の前景にある理論的な
しかしながら、我々が見てきたように、フロイトのナルシシズム論は文化の分析とはまったく異なったことを指摘している。最終節で提示された昇華理論はそれ自体、抑圧されていない性的エネルギーが備給された自我関心という別の昇華の見解の抑圧的で理想化した昇華である。フロイト思想の歴史、より広く言って精神分析それ自体の歴史は、性的なものの精神分析的な定義の抑圧の歴史である。文化の獲得を発達における混乱の曖昧にも成功した修復的〔reparative〕反復として扱う方が、それらの獲得をマゾヒズム的享楽の伝達不可能で解釈不可能な強度によって持続されたものとして捉えるよりも受け入れやすかったように思われる。人間のセクシュアリティにおける他者への本質的な無関心と呼ばれうるものを恐れて、フロイトは一次ナルシシズムという彼の理論を、ナルシス的な快自体は対象関係の派生物だと思われるように定式化することで、再解釈しようとしている。私はここで、また『フロイト的身体』でも主張してきたのは、フロイトの最も独創的で思弁的な動きは性的なものを間主観性のカテゴリーとして脱構築することであり、他者からの向け変わりでもあり自己の死滅でもあるものとして性的興奮の定義を提示することであった。死滅を懇願すること、すなわち一貫性をなくして破粋された欲望はおそらく精神分析が最も激しく抑圧しようとしてきたものである。しかし生から比類のない死滅への快を除外する衝動によって、その快は道徳的マゾヒズムとして限りなく危なっかしく理想化することへと導かれた。不十分に抑圧され不十分に満足された性的なものの動揺を更新する欲望はこのようにしてそれ自体に嫌悪を向ける〔turn against〕ことでそれ自体を繰り返す。すなわち、自己破粋は怒りに満ちた攻撃性に向かい、自己同一性の興奮した解体は単なる生物学的な死を望むことへと格下げされる。
最終的に、そして私の出発点に立ち戻ると、フロイト自身が「性格と肛門性愛」での思弁のなかでおそらくそのような変容に最も感受性のある時〔moment〕を突き止めていた。それはまるで拒絶や滞留として性的な快が経験される発達のまさにその時に我々が性的なものを否定する誘惑に最も脆弱であるかのようである。フロイトが肛門性格として記述しているもののなかで、我々は拘束されていないセクシュアリティとその残虐な抑圧との間の完全な同一性の独特な布置〔configuration〕をもっているのかもしれない。肛門性[anality]は性的なものと死の親和性を最も緻密に文字通り解釈〔literalize〕しているセクシュアリティの様式である。肛門性において性的興奮の動揺は重度の破壊の幻想へと促進され、ある意味では昇華される。肛門性格特徴は陰性化〔negativize〕された肛門のセクシュアリティであり、その陰性化——個人的で社会的な秩序への衝動の事例としての陰性化——は、修復〔reparation〕として、実際にはほとんど汚染された爆発性〔explosiveness〕への和解〔atonement〕として提示されうる。しかしながら潜在的に残虐な秩序との和解は文字通り歴史的に罰されてきた幻想的な壊滅状態〔devastation〕を繰り返すだろう。肛門性の激しさによって活気づけられた贖罪〔redemption〕の文化は死の文化である。
レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(4/5)
成人の生活において「原初的な自我のリビドー備給」の徴とは何であろうか。フロイトは「ある種の特別な困難が(中略)ナルシシズムを直接研究する方法のうちに横たわっている」と主張するため、主体は病理的な混乱、器質性疾患〔organic disease〕や「男女の愛情生活」〔the erotic life of the sexes〕の助けを借りてアプローチしなければならないだろう(SE14:82, 『全集』13巻、127-128頁。)。一次ナルシシズムの存在とその重要性についてのフロイトの証拠はますます一般的になり、彼の中心的な関心はナルシシズムと正常な自己の創出との間に打ち立てられる関係性に向けられる。第三部でフロイトは「抑圧の心理学」に立ち返り、正常な成人の自我リビドーに何が起こるのかを発見しようとする。「リビード的な欲動〔instinct〕の蠢きは、主体の文化的な考え方や倫理的な考え方と葛藤状態におかれると、病源的な抑圧という運命を経験する(中略)抑圧は、我々が見てきたように、自我から生じる。あるいは正確さを期して自我の自己尊重から生じると言ってもよいかもしれない(SE14:93, 『全集』13巻、141頁)。まったく新しい何かがここで出現し始めている。それは自我の道徳的価値への傾向という考え方である。そしてフロイトは構造上その考え方を解釈しているかのようである。その傾向は二つの用語を示しており、私が引用した段落の終わりで、自我の自己尊重と主体の文化的・倫理的思考は実際の自我とそれを評価し判断する理想との関係性になる。その基礎は周知の通り『自我とエス』に据えられている。
そのような関係はどのようにしてナルシス的なのであろうか。フロイトは抑圧に関する早期の議論のなかで、リビドーの蠢きとそれに対立する文化的・倫理的思考との葛藤を強調している。ところが彼はこの葛藤から
この理想自我はいまや幼少期に実際の自我が享受した自己愛〔self-love〕の目標である。主体のナルシシズムは、幼児の自我のように貴重なあらゆる完全性を保有しているこの新たな理想自我に置き換えられて出現する。リビドーが関係しているところではいつものように、ここでも人間はかつて享受した充足感を断念することができないということが示されている。人間は幼少期のナルシス的な完全性をなしですませようとはせず、成長して他者の忠告や自身の批判的判断の目覚めによって秩序が乱され、もはやあの完全性を保持することができなくなると、人間は自我理想という新たな形式でその完全性の回復を求めるようになるのである。人間が自身の前に理想として投射するものは自分自身の理想であった幼少期の失われたナルシシズムの代理である。(SE14:94, 『全集』13巻、141-142頁)
ここで記述されたナルシシズムの回復とは実際にはナルシシズムの根本的な変換である。フロイトが早期に記述した一次ナルシシズムは遡及的に道徳化される。幼児の自我は本当に「貴重なあらゆる完全性を保有」していたのだろうか、あるいは私が推測したようにその幼児の自我はある種の欲求の再帰〔appetitive reflexiveness〕によって生み出されるのであろうか。幼児のナルシシズムは「自己保存欲動のエゴイズムをリビドーによって補完」するものであり、また別の観点から言うと、心的な統一性の地位に「昇進」した自体性愛、すなわち個体化〔individuation〕という性化の原則の役割を自体性愛が果たしていくプロセスなのである。これは「ナルシシズムの導入に向けて」の第三部で幼児のナルシシズムと同一視〔identify〕される倫理的な自己認識〔self-appreciation〕とはかなり異なっている。その同一視によって、フロイトは自我と理想的な自我の型との関係を一次ナルシシズムの復活と等しいものとみなすという不調和を覆い隠すことができるのだ。
さらには「理想自我」はそれを愛する主体に付随しているわけではない。この「幼少期の失われたナルシシズムの代理」は外から課せられるものであり、実際には主体の快に敵対するものである。「良心が見張り役を務める自我理想の形成を主体に促すものは、声を媒介して伝えられた両親の批判的な影響に由来している。時が経つにつれ、教育者や教師や環境にいる他のあらゆる人、周囲の人といった不特定多数の人々や世論がそれに付け加わる」(SE14: 96, 『全集』13巻、144頁)。この一節の少し手前で、フロイトは検閲する審級〔agency〕を次の方法で導入している。「我々がある特別な心的審級を見出しても驚くことはないであろう。その審級とは、自我理想によるナルシス的満足が確保されるのを見守る任務を果たし、この目的のために実際の自我をたえず注視しその理想によって評価するものである」(SE14:95, 『全集』13巻、143頁)。言い換えれば、ナルシス的満足は義務となってしまい、「上位〔superior〕」の異質な自己から獲得されなければならない。どうして自我理想とフロイトがのちに超自我と呼んだものとの心的境界が曖昧であるとしばしば言及されるのかはたやすく理解できるだろう。超自我の理論は自我理想の現象学なのである。すなわち、それは理想の経験を内面に隔たる罪の意識として記述することである。
一次ナルシシズムのこの逆説的な復活——そこにおいて自我は罪深いために、より優れているある理想を愛することで快を見出すことを命令するのだが——は、一次マゾヒズムの歪曲した反復でもある。セクシュアリティは一次マゾヒズムの反復であるという主張を私は先に述べていた。この種のマゾヒズムは自己処罰〔self-punishment〕と何の関係もない。性的なものの構成としてそれを語ることは、幼児がその心的安定性の破粋を快の源泉として繰り返すことを求めるとりわけ人間の適応機制を記述する一つの試みである。しかしながらナルシシズムに関する論考はマゾヒズムとは完全に異なっており、そこでは自我の自己非難〔self-condemnation〕が快として経験される。「自我理想によるナルシス的満足が確保」されるのを確認することで、フロイトが語るその「特別な審級」は道徳的マゾヒズムというナルシシズムを永続させる。
もちろんある意味で、自我理想の概念は人間のセクシュアリティにおける対象の重要性を肯定し、その一方で一次ナルシシズムは世界と私たちの関係の本質的な反乱分子として考え
しかしフロイトがナルシシズム論の冒頭で大まかに記述した一次ナルシシズムは、我々の愛情生活の関係を開始させ、のちにそれを維持することを助ける。一次ナルシシズムは幼児の自我が破壊〔destoroy〕されるのではなくマゾヒスティックに破粋〔shatter〕されることを可能にする。それはもしかしたら幼児の環境を性愛化する爆撃に対する幼児の最大の性愛的な防衛なのかもしれない。ナルシシズムは
これらすべては昇華とどんな関係があるのだろうか。ナルシシズム論の第三部の二つの極めて興味深い段落のなかで、フロイトは「自我理想の形成」と「欲動の昇華」を区別する重要性を主張している。それはまさに昇華に抗して働く自我理想の要求である。自我理想は性的な蠢きを抑圧へと駆動〔drive〕する。「理想の形成は(中略)抑圧を援護する最も強力な機能」である。その結果、それらの蠢きはその原初的な形態において無意識のなかで昇華されないままである。他方、昇華は「出口なのであり、抑圧を
レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(3/5)
一見、最初は無関係に見える論考を議論することから私はこの疑問に取り掛かりたい。文化活動の非特異的な性化の考え方を追及することに対してフロイトが及び腰であることは、彼の初期の性的な快の理論に対するより決定的な拒否と関連して理解されるべきである。そしてその拒否は、間接的であるが不可逆的に彼のナルシシズムに関する思索と自我の構成によって生じた。フロイトは、1914年の「ナルシシズムの導入に向けて」という論考の冒頭で、ある種のナルシシズムは「倒錯ではなくあらゆる生命体にもある程度は備わっていると正当にも認められるであろう自己保存欲動のエゴイズムをリビドーによって補完するものである」と論じている。それゆえ「自我に対する原初的なリビドー備給」あるいは「一次的で正常なナルシシズム」があるだろう(SE14: 73-75, 『全集』13巻、118-120頁)。ある面では、精神分析の歴史におけるランドマークと考えられるこの新たな概念は、フロイトのかなり古い思想に遡る。1905年の『性理論のための三篇』のなかで、セクシュアリティは自体性愛的に開始されるとフロイトは主張している。セクシュアリティは対象関係(母親の乳房に対する幼児の関係)の始まりから生じるのかもしれないが、フロイトが提起するのは、とりわけその関係の性的な性質は対象に対する無関心を示唆しているということである。セクシュアリティの起源において、乳房は温かいミルクが唇を通って消化管に流れ込む刺激によって引き起こされる快とは無関係である。我々は、フロイトが忠告するように、自分の思考のうちに存在する欲動と対象との結びつきを緩めるようにしなければならない(SE7: 148, 『全集』6巻、188頁)。
ナルシシズムに関する論考のかなり序盤で、フロイト自身もこれらの指摘が指し示す疑問について自問する。「我々がいま述べたナルシシズムは、リビドーの早期状態として記述した自体性愛とどのような関係であるのだろう」。その回答は部分と全体の違いと関係がある。「自我に匹敵する統一体は最初から個人のうちに存在するはずがない、と我々は想定せねばならない。自我は発展されねばならない。しかし自体性愛的な欲動は最初から存在している。したがって、ナルシシズムが生じるためには、自体性愛に何かあるもの、ある新たな心的作用が付け加えられねばならない」(SE14: 76-77, 『全集』13巻、121頁)。これは自我と性欲動が別々の道で発展することを示している
我々はここで『性理論のための三篇』においてフロイトが性的な快を快感—不快〔pleasurable-unpleasurable〕の緊張と関連させていることに立ち帰るべきである。その快はフロイトがもちろん性器的セクシュアリティ〔genital sexuality〕と関連させる緊張放出の快とは大きく異なっている。『性理論のための三篇』でフロイトにとって最も悩ましい問題——それは『フロイト的身体』で私が長々と述べた問題であるが——は、主に性器的なもの〔genitality〕と同一視されるような欲望とは異なり、「満足」の消滅を求めるのではないある種の欲望を説明することである。セクシュアリティの快感—不快の緊張、すなわち自己破粋〔self-shattering〕の興奮という痛みは、それだけでなく持続され、再現され、さらには増幅されることをも目指すのである。人間主体は原初的にセクシュアリティ
ナルシシズムの概念はその定義を拡大したものだと考えられる。それはセクシュアリティの内在的に唯我論的な性質、また対象や器官特性〔organ specificity〕に対する相関的無関心〔correlative indifference〕のようなものであり、自体性愛の発展によって可能になる。そこでは快の源泉と、したがって欲望の対象はまさに
原初的な昇華はあらゆる性的欲望を開始させる様式として考えることもできる。その性的欲望が純粋かつ抽象的に目標とするのは、快楽的で苦痛な反響する緊張自体を繰り返すことであり、その緊張を最初に生産したかもしれない行為を繰り返すことではない。おそらくこのような推測において昇華理論を基礎付けることではじめて、昇華のプロセスと症状や反動形成のプロセスとの間の区別を保証することができる。というのも原初的昇華のエネルギーは定義上非固着的なエネルギーであるからだ。欲望の対象はいかなる対象関係の
昇華されたエネルギーは本質的に非参照的〔nonreferential〕である。それは単に昇華されたエネルギーが抑圧を免れ、それゆえ古い目標や対象の代理を見出そうとする衝動が最小限の状態で新たな目標や対象に結び付けられるという理由で非参照的なだけでなく、そのエネルギーがもともと参照のない快によって動機付けられているという理由で非参照的なのである。あらゆる昇華が発現するモデルはそれ自身を性化する潜在力を追求する意識にある。それはまるで内省を通してセクシュアリティを開始する展望に魅了〔fascinate〕されてしまうようなものであるため、特定の目標や対象からまぬがれているわけではない*2。私が提起したいのは、それは「ナルシシズムが生じるために(中略)自体性愛に付け加え」られた魅力〔fascination〕だということである。フロイトが一次ナルシシズムと呼ぶものを作り出す「新たな心的作用」は自体性愛の昇華である。今や我々は理解できるのだが、最初のナルシス的な愛は必然的にマゾヒズム的なものなのである。後の二次的なマゾヒズムが苦しめられ(汚染される)罪悪感のような道徳的構成要素を完全に欠いているので、一次的でマゾヒスト的な欲望は単に純粋な
*1:(原注)ラプランシュは私がここで展開した考えと一致するようなものを提示しているように思われる。彼は1914年のナルシシズム論におけるフロイトのテーゼを要約するなかでこう書いている。「自我へのリビドー備給は人間の自我の構成そのものから切り離すことができない」Jean Laplanche, Vie et mort en psychanalyse (Paris: Flammarion, 1970), p. 116、ジャン・ラプランシュ『精神分析における生と死』十川幸司、堀川聡司、佐藤朋子訳、金剛出版、2018年、132頁。
*2:(原注)「まるで〜ように」と私がここで言葉を和らげるのは、「魅了される〔fascinated〕」や「内省〔self-reflection〕」といった用語はこうした意識を記述するには現象学的に不正確であらねばならないということを指し示すためにである——しかしながら我々とフロイトのメタサイコロジー的思索は意識の原始的な状態におけるある種の持続性を想定しているのであるが。そのような状態ははるかに発展した精神構造における不適切な複製物から推察される。ナルシシズムの論考で、その「証拠」は透徹して思弁的な主張に先立つのではなく、思弁的な主張の後で述べられる。まさにこの順序が強調しているのは厳密に言うと証拠がないことに対して膨大な証拠があるというパラドックスである。
*3:(原注)コフートはセクシュアリティと自己〔self〕の関係の全く違った見方を示している。彼にとって——これは欲動を重視するフロイト派の側からの強い抵抗を導くことになるのだが——早期の発達の「核心」〔bedrock〕は去勢不安にあるのではなく、むしろ中核的自己〔nuclear self〕に対する脅威にある。性的なものは自己-形成〔self-formation〕や自己-確証〔self-confirmation〕に対して本質的に二次的なものである。フロイトが欲動の運命〔instinctual vicissitude〕と呼んだものは、コフートにとって基本的に[原書ではesentiallyとされているがessentiallyの誤植か]自己の扱われ方に対する
このような考えはひょっとすると一次ナルシシズムと一次的な対象備給〔object investment〕が同時に起こるというカーンバーグのテーゼに近いのかもしれない。彼は一次的で未分化の自己-対象の表象を仮定しており、それゆえナルシシズムと対象備給は同時に発展する。しかしこれはカーンバーグが指摘するように、コフートの理論とも古典的な思想とも異なっている。Otto F. Kemberg, Borderline Con ditions and Pathological Narcissism (New York: Aronson, 1975)、とりわけ第十章を参照せよ。カーンバーグの著作に対する興味深い「古典的」な異議はMilton Klein and David Tribich, “Kemberg’s Object-Relations Theory: A Critical Evaluation,” International Journal of Psychoanalysis, 62, part 1 (1981)に見られる。
ナルシシズムに関するいくつかの価値のある論考についてはNouvelle Revue de psychanalyse, 13 (Spring 1973)の「ナルシシズム」と題された論考を参照せよ。
レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(2/5)
性格特徴は神経症の症状、反動形成、昇華と呼ばれるべきなのであろうか。そしてこれらのプロセスは互いにどの程度独立しているのだろうか。最も重要なのは、この問題に対するフロイトの流動する立場のなかで何が争点となっているのかである。性格特徴がいかにして形成されるのかという疑問に対する彼のためらいは、まるで昇華の概念の必要性が一般的に不確実なものであるということを言い表しているかのようである。精神分析の臨床的な概念は人間の性格や芸術といった臨床外の諸現象を説明するのに適当なのであろうか。フロイトのメタサイコロジーに関する未刊行の論文に昇華の議論が含まれていたかどうかは精神分析の歴史におけるよく知られた謎である。彼は1915年の春に五つのメタサイコロジーに関する論考を執筆した(スタンダード・エディションの14巻に全て所収されている[邦訳は『フロイト全集』14巻に全て所収])。さらに七つは同年の夏の間に書かれたようであるが、それらは決して刊行されることがなく、フロイトが破棄したものと思われる。失われた論考のうちの五つの主題については当時のフロイトの手紙のなかで言及されている。他の論考での言及を根拠に、その他の二つの論文のうちの一つの主題は昇華であったことが想定されている。フロイトは本当にその論考を破棄したのだろうか。もしそうであるとしたら、それはなぜなのか。
その議論が受け入れられなかったことについて様々な形で想像してみたくなる。想定してみよう。まずメタサイコロジーの観点からは完全に独立した昇華の理論は不必要である、とフロイトは論考のなかで示していた。芸術作品は神経症の症状や夢と同じ心的機制によって製作される。それゆえ、昇華のプロセスの論文に対する文化の関係は『夢解釈』に対する夢の関係と同じである。フロイトの芸術解釈〔Kunstdeutung〕は精神分析的物語論における一つの演習であったのかもしれない。あるいは、おそらく書かれなかった論考の二次的な書き直しを試しにしてみると、フロイトは症状や反動形成に伴う抑圧とはほとんど完全に異なったプロセスを詳しく述べていたのかもしれない。自我の文化的関心が幼児の性的関心に負っているものは何もないのかもしれない。昇華に関するこの種の論考は精神分析の力能の限界を必然的に定めてしまうのだが、それは二つの異なる方法のうちの一つによる。我々は、新たな心身二元論が文化的獲得のある水準で復権されるこうした脱性化のメカニズムを説明することになるか、あるいは抑圧された性的欲望に負っているものが何もない性化された振る舞いのある種の様式を説明することになるかのいずれかである。この後者の説明は文化と身体的強度との間の本質的な不連続性の神話を破壊することに膨大な関心が向けられている。それと同時に、私が文化的関心の非特異的な
昇華に関する二つの異なる試みを再構築する中で私が述べたあらゆることは、実際少なくとも、フロイトによって提起されている——もちろん昇華に関する論考の中ではないが。私たちはすでに「性格と肛門性愛」で大雑把に提起されたこれらの主張のうちのいくつかを見てきた。そして我々はそれらの主張のさらなる詳述を、もちろんその主張に対する反動をも、ナルシシズムに関するフロイトの1914年の著作から見出していきたい。しかし重要なのは、これらの様々な立場の間の矛盾にはっきりと立ち向かった人は誰もいないことである。性的なものとおそらく非性的なものの関係を解決することができなかったことの戦略的利点はなんなのであろうか。思慮を限りなく深めていくと、フロイトのコーパスから我々の二つの試みのうち最初のものが排除されることが想像できる。精神分析のパブリックイメージにとって、文化という神聖不可侵なもの〔sacred cow〕に関する還元主義的な立場よりも最悪なことはなかった。のちの世代の精神分析の批評家たちによる敬虔な否定を予期した措置をとって、フロイトはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を停止された発達の歴史的な症例として、また分析的解釈を必要とする症例として分析する中で、レオナルド・ダ・ヴィンチは神経症ではないと我々に保証する。しかしそのような非一貫性は、精神分析の「イメージ」にとって、その非一貫性を消し去り、芸術は神経症の症状と同じメカニズムに従っていると主張するよりかはましである。実際、フロイト以来のあらゆる精神分析批評は芸術の退行的性質を支持する主張を隠蔽しようとしている*1。我々の二つ目の試みはしかし、一つ目の試みよりも一層受け入れ難いかもしれない。目下危ぶまれるのは、精神分析が狭い専門分野のなかで概念化されることである。非性的なものとしての文化であれ、あるいは精神分析的には解釈不可能な性的なものの変形としての文化であれ、それを理論化するにあたって、フロイトは彼の新たな学問分野をただ医学の新たな領域として定義するだろう。精神分析は人間の行動の病因的なものに差し控えられ、残りは手付かずのままである。それゆえ、フロイトは彼自身にとってはるかに興味深く必然的な展望となりうるものを破壊した。それは単なる医学的な解釈学または治療上の解釈学を超えた、文化的な解釈学としての精神分析である。
しかしながら私が最も興味を引かれるのはいくらか奇妙なある可能性である。私が主張したいのは、昇華に関する我々の仮説上の二番目の試みにおける別の種類の危険性、別の種類の受容不可能性である。昇華されたセクシュアリティが、神経症的なセクシュアリティの概念とその概念を支持する性的なものの定義の両方に疑問を呈するかもしれないという可能性を考えてみよう。私が精神分析的には解釈不可能な性的なものの変形と性急に呼んだものを支持する試論は、精神分析の解釈の範囲を限定する代わりに、ある承認し難い方法で精神分析の力能を全体化するかもしれない。精神分析で最も受け入れ難いのは、かねてから一般的にそう思われているのだが、性的なものの定義である。しかし、今や我々はその定義がフロイト自身にとっても受け入れがたかったことを考えねばならない。昇華に関する論考を刊行しなかったこと(もしかしたら書くことさえもしなかったこと)は、したがって、力の望まない拡大を拒絶したと捉えられるだろう。昇華は精神分析の限界にある不必要な概念ではない。むしろ、その概念は、文化の哲学であるという精神分析の主張を正当化することによって、救済〔redemption〕の文化——失敗した経験を作り変えたり修復するものとしての芸術の概念——において、その緊張した共謀を強化するか脅かすかのいずれかになりうる。芸術を症状のように定義する昇華理論はそれ自体、セクシュアリティと文化についてのラディカルな見方——より正確に言うと、償い的〔reparative〕でも救済的〔redemptive〕でもない
*1:(原注)その試みや主張は、芸術と一次過程の関係についての思弁という文脈においてしばしば興味深い結論でもって頻繁になされてきた。私が考えているのは、例えばエルンスト・クリスの制御〔control〕・統制〔regulate〕された退行という概念である。そこでは自我は一次過程によって制圧される代わりに、一次過程を創造的に利用する。 彼の著作、Psychoanalyse Explorations in Art (New York: Schocken, 1952)を参照せよ。アントン・エーレンツヴァイクはクリスよりもさらに進み、「芸術における一次過程の非常に構造的な役割」を主張している。エーレンツヴァイクにとって、「クリスの概念に欠けていたのは(中略)創造性は一次過程のために退行を制御するだけではなく、一次過程自体の作業を制御するという洞察である」The Hidden Order of Art : A Study in the Psychology of Artistic Imagination (Berkeley: University of California Press, 1967), pp. 31, 261-262。最後に、ジャン=フランソワ・リオタールは極めて興味を掻き立てる主張をしている。彼は芸術における無意識のプロセスの二重の反転〔double renversement〕と彼が呼ぶものを主張する。芸術がただ無意識的欲望の内容を繰り返すだけである限り、それは症状のように読解することができる。リオタールにとって(そして我々にとっても)より興味深いのは、芸術における欲望の非現実化〔nonrealization of desire〕である。芸術作品は、幻覚的内容よりもむしろ欲望の運動を繰り返すことによって、欲望が構成されたいかなる決定的な意味にも落ち着かないようにする。それはまるで無意識的欲望がそれ自身の特徴的な操作様式の対象となることで、特定の表象を欠いているようである。Jean-François Lyotard, Discours, figure(Paris: Editions Klincksieck, 1971)と"Oedipe juif," Dérive à partir de Marx et Freud(Paris: Union générale d'éditions, 1973)を参照せよ。
精神分析のコミュニティのうちで、もちろん芸術に関する議論は多数なされてきた。数年前のAmerican Imago誌のある号は「天才、精神分析と創造性」(1967年春—夏)と題するものであり、くだんの問題に対する繊細で見事な考え方を示している。それはフロイト的な美学の説明を試みる精神分析家にとって普遍的に重要であると思えるものであった。この号はクルト・アイズラーのレオナルド・ダ・ヴィンチとゴーチエに関する著作に影響を受けたもので、以下のような疑問に活発な議論を差し出している。ナルシシズムは芸術的創作をもたらす償いのエネルギーの背後にある成熟する力であるのか?創作の動機の強度は攻撃性やリビドーの派生物、あるいはたいてい「脱攻撃化〔deaggressivization〕」や「脱リビドー化〔delibidinization〕」に由来するのか?創造的なパーソナリティの退行は自我の貢献なのか、あるいは自我の回復や自我の生存をさえ目指しているのか?我々は昇華を創造性と同義であると考えるべきなのか?芸術活動は「自律的〔autonomous〕」であるのか、すなわち原初的な葛藤の領域から切り離されているのか?あるいは創造の過程全体は、それを絶えずはぐくむ根底にある葛藤と一緒になって進展するものなのか?これらの疑問のうちいくつかは確かに注目するに値するのだが、精神分析家(とりわけアメリカの精神分析家)がこれまでむけてきた注目はつねに知的な観点で単純すぎるように思われる。それはおそらくこれらの大御所の精神分析家たちがおそらくカント以来の美学理論と文学批判のほとんど全てに対して無関心であったことに由来するのかもしれない。芸術に関する熟達した精神分析的な関心の最高水準はもちろんジャック・ラカンの著作にある。マルコム・ボウイは近年精神分析の真理のために文学を使用するラカンのアンビバレントで問題含みな試みをうまく説明している。ボウイは「ラカンが取り扱う文学の素材に示される賛美、羨望、攻撃性のリズム」について述べている。ボウイのFreud, Proust and Lacan: Theory as Fiction (Cambridge: Cambridge University Press, 1987), p. 158を参照せよ。
一次ナルシシズムについてのフロイト派の仮説に関する思弁に影響を受けた芸術への理論的なアプローチを概略する私の試み(とりわけ第三章のボードレールとニーチェについての議論を参照せよ)において、ハインツ・コフートは、彼のナルシシズムに関する著作と芸術に対する関心を考慮すると、期待のできる参照先のように思われるが、残念ながら彼は精神分析につねのクリシェを使うことにとどまっている。「音楽の心理学的機能についての観察〔Observations on the Psychological Function of Music〕」と題された論考のなかで、彼は「前性器的リビドーの攻撃的な緊張を緩和する音楽活動の心的経済の有効性」について述べている。そしてコフートはセラピストのいない統合失調症者にとって芸術は有用な代理となると提起している。なぜなら、よく知られているように、芸術は「制御・制限された退行」を可能にするからである。The Serch for the Self: Selected Writing of Heintz Kohut, 1950-1978, vol. 1, ed. Paul H. Ornstein (New York: International Universities Press, 1978), pp. 249-251を参照せよ。
レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(1/5)
本稿はLeo Bersani, "Erotic Assumption: Narcissism and sublimation in Freud," in Leo Bersani, Culture of Redemption, Harvard University Press, 1990, pp, 29-46より、五部構成の論文の第一部の試訳です。個人の非営利的な研究目的のために訳文を公開しておりますが、なにか問題がありましたらご連絡ください。
ホモセクシュアルは肛門性格をもたない。これはフロイトが1908年に「性格と肛門性愛」のなかで提起した、厳密に論理的な性格の系譜学の結論である。フロイト自身は確かにいくらかよりためらいがちにこの結論を提示している。彼は次のように書いている。フロイトがまさに記述したような特定の性格特徴と肛門性愛との関係に「何らかの現実的根拠」があるとするならば、したがって「例えばいくらかのホモセクシュアルの人々ように肛門領域の性源的特徴を成人でも保持している人々のなかに「肛門性格」の程度の際立ったものを見出すことは期待できないであろう。私が間違いを犯していない限り、経験による証言は概してこの推論に一致する」(SE9: 175, 『全集』9巻、286頁)*1。肛門性格の特徴の強度は個人の性生活における肛門の快の脆弱性、あるいは肛門の快の欠如にさえ直接的に相関する。トイレット・トレーニングに対して反抗的、または特異な反応をすることで「肛門領域の性源性」——性源性〔etorogenicity〕はフロイトが示唆するように遺伝的に決定されているのかもしれない——が並外れて強いことを指し示す子供は、成長するにつれて快の特権的な地帯としての肛門領域を失う。しかし彼らは「几帳面〔orderliness〕、倹約〔parsimony〕、強情〔obstinacy〕という性格特徴」に発達する。それは「肛門性愛の昇華の最初にして最も恒常的な結果として考えられる」(SE9: 170-171, 『全集』9巻、281-282頁)。
「性格と肛門性愛」はフロイトの最もスキャンダラスな仕事のうちの一つであった。今日ではこの論考は精神分析の歴史における衝撃的で画期的な発見としてよりも、フロイト的還元主義の主要な事例として考えられている。しかしこの論考のいくらか肌理の粗いこの知的な主張が再定式化するのは、非性的なもの〔nonsexual〕が存在するのかという精神分析の最も原初的で秩序を乱す疑問である。そしてもしそれが(フロイトが一貫して主張するように)存在するのだとしたら、それは正確にはどこで発生するのだろうか。周知の通り、性的な快はそもそも性的なものの氷山の一角にすぎない。精神分析が我々に教えるのは、夢、ジョーク、日常的な言葉の事故、性格特徴、遊び、芸術作品を、様々な性的興奮の変装した表出として読むことである。フロイトにとってホモセクシュアルの肛門の感性は肛門性格に不要である。後者(几帳面、倹約、強情という三つ組)は、特定の身体的快楽〔bodily pleasures〕を身体から逸らすことでもあり、また同時にそれら[=身体的快楽]の永続性の保証を合法化するものでもある。あらゆる性的な快のように、肛門性〔anality〕はその名を与える領域に制限されているわけではない。精神分析にとって、セクシュアリティは心的感染症〔psychic infection〕のある特定の類型なのである。
フロイト主義〔Freudianism〕はおそらく近代の考究のうち最も急進的なものであり、我々の文明の心身二元論に魅せられた状態を破壊(そして説明)して、身体的強度の性格学的・文化的な移住〔migration〕と呼ばれるであろうものを位置付ける。セクシュアリティはどのようにして繰り返される〔repeat〕のだろうか。性的なもの〔sexual〕のこの波及を位置付けることはセクシュアリティ自体が症状のように〔symptomatically〕再生産される限り問題のないものである。フロイト的地図の製作者はある特別な能力——症候学的解釈〔symptomatological hermeneutics〕の熟練者の能力——を必要とするのだが、一度そのような能力を獲得すると、その人は非性的なもの〔nonsexual〕から性的なもの〔sexual〕を読み返すことすら容易にできるようになる。これはまさにフロイトが「性格と肛門性愛」で行ったことであり、几帳面、倹約、強情は遡ると、大便失禁、腸閉塞、そして「排出した糞便を用いたあらゆる種類の節度のない行為」といった幼児期の肛門の快に行き着く(SE9: 170, 『全集』9巻、280頁)。肛門性格は「不潔なもの、秩序を乱すもの、身体の一部でないはずのものへの興味に対する反動形成の印象をまさに与える」(SE9: 172, 9巻、282頁)。禁じられた快は性格特徴において今や消極的〔negatively〕に表象される——否定されながらも部分的に満足をもたらす。糞便への興味は清潔への強迫観念となる。我々は本質的に神経症の構造であるものを捉えているだろう。それは抑圧された衝動〔impulse〕とこの衝動に対する防衛でもあり表出でもある意識的な行動という要素である。肛門性格特徴はこうして、性格神経症を構成するものとして、すなわち性的発達の肛門段階で行き詰まり停止されている主体の存在に対する、重度の構造的な反応として考えられるだろう。几帳面、倹約、強情に備給〔invest〕したリビドーエネルギーは肛門的〔anally〕に固着したエネルギーである。
固着しているが、自由に流れもするのである。「性格と肛門性愛」で明白に強調していることが求心的であるために(フロイトの記述するあらゆる特徴と活動は肛門に帰っていく)、我々はこの論考の遠心的な引き〔pull〕を見逃しているかもしれない。というのも、フロイトが少なくとも暗に主張しているのは、肛門性愛として固着した性欲動でさえもその欲動の満足をもたらすような対象や活動に対して比較的無関心だということである。より簡潔に言うと、肛門は肛門性愛に対して無関係となりうるということである。『性理論のための三篇』の中心的な仮説にここでの残響を確認できるのだが、それはまるでセクシュアリティにおいてはほとんどすべてのものが目的を果たす〔do the job〕ということである。肛門性愛と同じように特定のある性欲動は、灰皿を空にすることを強迫的に繰り返したり、文献目録を編集することでなんとかやりくりするのであろう。それらの性欲動は、こうした活動に対して、糞便を滞留・排出する快を特徴付けるようなものと似ていないわけではない感覚——抽象的感覚と呼ばれうるもの、つまり保持・放出する器官の伴わない滞留・排出する快——を生産することを強制する。要するに、肛門性格は肛門性愛の本質のようなものを表現するのであろう。それはプラトン的イデアとさえ呼ばれるかもしれない。
おそらくこの抽象度でのみ肛門性格は撞着〔oxymoron〕を免れる。いかなる場合でも、肛門性愛の欲動の可塑性、すなわち様々な性格特徴や活動にほとんど無差別的に利用可能であることは、固着した性的エネルギーの概念が少なくとも非常に問題含みであることを提起している。肛門欲動〔drive〕の流動性は肛門欲動
『性理論のための三篇』における身体の「性源域」(「性器、口唇、肛門、尿道」)に関するより早期の議論に言及しながら、フロイトはこう書いている。「これらの身体部分からやって来る興奮量は同じ運命〔vicissitude〕を辿るわけではなく、それらすべての運命〔fate〕も人生のあらゆる段階で同じわけではない。一般的に言って、それらの一部のみが性生活に利用されるのである。他の部分は性目標から逸らされ、別のものに向け変えられる——「昇華」という名に値するプロセスである」(SE9: 171, 『全集』9巻、281頁)。論考を通してフロイトは欲動〔instinct〕の目標の変化としての昇華のプロセスという定義に頻繁に立ち戻っている。性格と文化は「実用性のない〔uncerviceable〕」セクシュアリティによって燃料補給されているようである。それらは構成的に
このようにして文化的に高等な目標は性的に低級な目標の代理〔representation〕に基づいているように思われる。口唇と肛門のエネルギーをやぶさかに貯蓄して再利用するものとしての昇華の観点は、肛門を理論化する思いがけない教科書的な例として我々を驚かせるかもしれない。しかし、非常に興味深い仕方でフロイトが提起するのは、貯蓄するものもまた失われ浪費されるということである。もし性源域に由来する興奮が
これらの新たに昇華された目標は、目標が制止〔inhibit〕された性的衝動〔impulse〕からどれほど「情報伝達(inform)」されるのか、あるいはどの程度解釈されうるのかについての疑問は未回答のままである。我々はもちろんここでメラニー・クラインの初期の著作で停滞した〔suspended〕、または余分なリビドー〔superfluous libido〕として理論化されたものを扱っているわけではない。それはいかなる特定の性欲動〔drive〕をも超過〔excess〕した性的エネルギーによるものであった。しかしまた我々が扱っているのは、抑圧された性欲動——その性欲動はそれを少なくとも部分的には満足させる自我の活動によって変装しようとする——の固着したエネルギーでもない。初期のクラインと同様に、フロイトが興味をもっていたのは、主体の過去の性欲動によってあるとしてもミニマルにのみ決定される性化〔sexualize〕する自我の活動を定義することのように思われる。この活動を説明するために、症状や反動形成の概念とは異なったある概念が明らかに必要とされ、昇華の概念は非特異的な類型の性的活動、つまり特定の行動ともはや結びついていない性的活動を記述するのに適している
それゆえ昇華においては、内容〔content〕という判断基準は高度な自我の活動である性化〔sexualization〕を認識するためにはもはや使い物にならないであろう。ここで性〔sex〕から独立したセクシュアリティというこの奇妙な考え方に立ち戻りたい。さしあたり「性格と肛門性愛」におけるフロイトのためらいに関心を向けよう。そこでは彼は昇華は反動形成から区別されるべきかについてためらいがあった。昇華のプロセスとして性目標の逸脱を定義した文章の直後に、フロイトはこう記述している。「羞恥、嫌悪感、道徳といった」反動形成物は、性欲動の「以後の活動を阻むダムのように生」じる。肛門性愛はこうして「性目標に役に立たなく」なり、几帳面、倹約、強情に昇華される(SE9: 171, 『全集』9巻、281頁)。ここでは昇華は反動形成のプロセスの単なる最終段階であるように思われる。しかし、堰き止められた(「抑圧された」とも言うべきであろうか?)肛門性愛が症状として変装して表出されるのは、性欲動とかつて結びついていた興奮の
*1:(原注)The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, ed. James Strachey, 24 vols.(London: Hogarth Press, 1953-1974), 9:175. 『フロイト全集』全22巻、岩波書店、2006-2012年、9巻286頁。以後、Standard Edition(SE)とフロイト全集(『全集』)からの引用は、書籍の略称、巻数、頁数のみをテクストに記す。
*2:(原注)ジャン・ラプランシュは、レオナルド・ダ・ヴィンチに関するフロイトの研究において性的衝動の昇華は抑圧の前に生じるという見解を強調している。Laplanche, Problematiques Ⅲ のとりわけpp. 109-115を参照せよ。1964年のジャック・ラカンのセミネールでのフロイトの「欲動と欲動運命」に関する議論のなかで、ラカンもまた「抑圧をともなわない」性欲動の満足として昇華を定義づけている(Le Seminaire, livre Ⅺ: Les Quatre Concepts fondamentaux de la psychanalyse (Paris: Editions du Seuil, 1973), p. 151.)。昇華とセクシュアリティのおそらく補完的な関係に関する議論についてはKurt Eissler, Leonardo da Vinci: Psychoanalytic Notes on the Enigma (New York: International Universities Press, 1961)を参照せよ。私はこの問題について『フロイト的身体』の第二章で踏み込んだ議論をしている(The Freudian Body: Psychoanalysis and Art (NewYork: Columbia University Press, 1986), chap. 2.)。
*3:(訳註)このあたりは読みづらいが、ベルサーニはフロイトの性格形成に関する理論自体をその理論のなかで論証される「倹約〔parsimony〕」という言葉で形容して揶揄するレトリックを使っている。これと同じレトリックで、フロイトが理論化してきた症状形成や反動形成には含めることができないような、性欲動と特定の行動の結びつきがより曖昧な自我の活動を記述するために、昇華概念それ自体昇華されてできたものだと揶揄しているのだろうか。