レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(1/5)

本稿はLeo Bersani, "Erotic Assumption: Narcissism and sublimation in Freud," in Leo Bersani, Culture of Redemption, Harvard University Press, 1990, pp, 29-46より、五部構成の論文の第一部の試訳です。個人の非営利的な研究目的のために訳文を公開しておりますが、なにか問題がありましたらご連絡ください。

 

 ホモセクシュアル肛門性格をもたない。これはフロイトが1908年に「性格と肛門性愛」のなかで提起した、厳密に論理的な性格の系譜学の結論である。フロイト自身は確かにいくらかよりためらいがちにこの結論を提示している。彼は次のように書いている。フロイトがまさに記述したような特定の性格特徴と肛門性愛との関係に「何らかの現実的根拠」があるとするならば、したがって「例えばいくらかのホモセクシュアルの人々ように肛門領域の性源的特徴を成人でも保持している人々のなかに「肛門性格」の程度の際立ったものを見出すことは期待できないであろう。私が間違いを犯していない限り、経験による証言は概してこの推論に一致する」(SE9: 175, 『全集』9巻、286頁)*1肛門性格の特徴の強度は個人の性生活における肛門の快の脆弱性、あるいは肛門の快の欠如にさえ直接的に相関する。トイレット・トレーニングに対して反抗的、または特異な反応をすることで「肛門領域の性源性」——性源性〔etorogenicity〕はフロイトが示唆するように遺伝的に決定されているのかもしれない——が並外れて強いことを指し示す子供は、成長するにつれて快の特権的な地帯としての肛門領域を失う。しかし彼らは「几帳面〔orderliness〕、倹約〔parsimony〕、強情〔obstinacy〕という性格特徴」に発達する。それは「肛門性愛の昇華の最初にして最も恒常的な結果として考えられる」(SE9: 170-171, 『全集』9巻、281-282頁)。

 「性格と肛門性愛」はフロイトの最もスキャンダラスな仕事のうちの一つであった。今日ではこの論考は精神分析の歴史における衝撃的で画期的な発見としてよりも、フロイト的還元主義の主要な事例として考えられている。しかしこの論考のいくらか肌理の粗いこの知的な主張が再定式化するのは、非性的なもの〔nonsexual〕が存在するのかという精神分析の最も原初的で秩序を乱す疑問である。そしてもしそれが(フロイトが一貫して主張するように)存在するのだとしたら、それは正確にはどこで発生するのだろうか。周知の通り、性的な快はそもそも性的なものの氷山の一角にすぎない。精神分析が我々に教えるのは、夢、ジョーク、日常的な言葉の事故、性格特徴、遊び、芸術作品を、様々な性的興奮の変装した表出として読むことである。フロイトにとってホモセクシュアルの肛門の感性は肛門性格に不要である。後者(几帳面、倹約、強情という三つ組)は、特定の身体的快楽〔bodily pleasures〕を身体から逸らすことでもあり、また同時にそれら[=身体的快楽]の永続性の保証を合法化するものでもある。あらゆる性的な快のように、肛門性〔anality〕はその名を与える領域に制限されているわけではない。精神分析にとって、セクシュアリティは心的感染症〔psychic infection〕のある特定の類型なのである。

 フロイト主義〔Freudianism〕はおそらく近代の考究のうち最も急進的なものであり、我々の文明の心身二元論に魅せられた状態を破壊(そして説明)して、身体的強度の性格学的・文化的な移住〔migration〕と呼ばれるであろうものを位置付ける。セクシュアリティはどのようにして繰り返される〔repeat〕のだろうか。性的なもの〔sexual〕のこの波及を位置付けることはセクシュアリティ自体が症状のように〔symptomatically〕再生産される限り問題のないものである。フロイト的地図の製作者はある特別な能力——症候学的解釈〔symptomatological hermeneutics〕の熟練者の能力——を必要とするのだが、一度そのような能力を獲得すると、その人は非性的なもの〔nonsexual〕から性的なもの〔sexual〕を読み返すことすら容易にできるようになる。これはまさにフロイトが「性格と肛門性愛」で行ったことであり、几帳面、倹約、強情は遡ると、大便失禁、腸閉塞、そして「排出した糞便を用いたあらゆる種類の節度のない行為」といった幼児期の肛門の快に行き着く(SE9: 170, 『全集』9巻、280頁)。肛門性格は「不潔なもの、秩序を乱すもの、身体の一部でないはずのものへの興味に対する反動形成の印象をまさに与える」(SE9: 172, 9巻、282頁)。禁じられた快は性格特徴において今や消極的〔negatively〕に表象される——否定されながらも部分的に満足をもたらす。糞便への興味は清潔への強迫観念となる。我々は本質的に神経症の構造であるものを捉えているだろう。それは抑圧された衝動〔impulse〕とこの衝動に対する防衛でもあり表出でもある意識的な行動という要素である。肛門性格特徴はこうして、性格神経症を構成するものとして、すなわち性的発達の肛門段階で行き詰まり停止されている主体の存在に対する、重度の構造的な反応として考えられるだろう。几帳面、倹約、強情に備給〔invest〕したリビドーエネルギーは肛門的〔anally〕に固着したエネルギーである。

 固着しているが、自由に流れもするのである。「性格と肛門性愛」で明白に強調していることが求心的であるために(フロイトの記述するあらゆる特徴と活動は肛門に帰っていく)、我々はこの論考の遠心的な引き〔pull〕を見逃しているかもしれない。というのも、フロイトが少なくとも暗に主張しているのは、肛門性愛として固着した性欲動でさえもその欲動の満足をもたらすような対象や活動に対して比較的無関心だということである。より簡潔に言うと、肛門は肛門性愛に対して無関係となりうるということである。『性理論のための三篇』の中心的な仮説にここでの残響を確認できるのだが、それはまるでセクシュアリティにおいてはほとんどすべてのものが目的を果たす〔do the job〕ということである。肛門性愛と同じように特定のある性欲動は、灰皿を空にすることを強迫的に繰り返したり、文献目録を編集することでなんとかやりくりするのであろう。それらの性欲動は、こうした活動に対して、糞便を滞留・排出する快を特徴付けるようなものと似ていないわけではない感覚——抽象的感覚と呼ばれうるもの、つまり保持・放出する器官の伴わない滞留・排出する快——を生産することを強制する。要するに、肛門性格は肛門性愛の本質のようなものを表現するのであろう。それはプラトンイデアとさえ呼ばれるかもしれない。

 おそらくこの抽象度でのみ肛門性格は撞着〔oxymoron〕を免れる。いかなる場合でも、肛門性愛の欲動の可塑性、すなわち様々な性格特徴や活動にほとんど無差別的に利用可能であることは、固着した性的エネルギーの概念が少なくとも非常に問題含みであることを提起している。肛門欲動〔drive〕の流動性は肛門欲動として・・・ の同一性を問題のあるものとする。あるいは別様に言うと、性格特徴の性化〔sexualization〕は、性格特徴(几帳面はもはや単に秩序を愛することとしては定義されないだろう)に関してのみならず、その源泉であると想定された欲動に関しても、定義付けられた安定性を崩壊させる。「性格と肛門性愛」のなかで、フロイトは性化の過程は内在的に読解の可能性を危機に陥れるとはもちろん決して言っていない。実際に、この論考はまさにその反対のことを主張していることで有名かつ当初は悪名高かった。例えば、我々は糞便を滞留する快の反復として几帳面さを読むように教えられるのだ。それにもかかわらず、フロイトは性格形成を(肛門性格の形成までも)症状形成と同等のものとすることもまたためらった。その結果として提起されるのは、この論考で彼が提案しているように見える主張と比して、そのような特徴は特定の性欲動への説明をあまり可能にしていないということである。

 『性理論のための三篇』における身体の「性源域」(「性器、口唇、肛門、尿道」)に関するより早期の議論に言及しながら、フロイトはこう書いている。「これらの身体部分からやって来る興奮量は同じ運命〔vicissitude〕を辿るわけではなく、それらすべての運命〔fate〕も人生のあらゆる段階で同じわけではない。一般的に言って、それらの一部のみが性生活に利用されるのである。他の部分は性目標から逸らされ、別のものに向け変えられる——「昇華」という名に値するプロセスである」(SE9: 171, 『全集』9巻、281頁)。論考を通してフロイトは欲動〔instinct〕の目標の変化としての昇華のプロセスという定義に頻繁に立ち戻っている。性格と文化は「実用性のない〔uncerviceable〕」セクシュアリティによって燃料補給されているようである。それらは構成的に苦肉の策・・・・ 〔a pis aller〕であり、正常な性的発達のうちに準備されていて拭い去ることのできない衝動のはけ口である。性器のヘゲモニーを脅かす目標をもつ前性器期のリビドーの多量は他の何かに変えられなければならず、そしてリビドー経済の観点からはその他の何かが几帳面という性格特徴であっても読書という活動であっても、それは大した違いではないのである。

 このようにして文化的に高等な目標は性的に低級な目標の代理〔representation〕に基づいているように思われる。口唇と肛門のエネルギーをやぶさかに貯蓄して再利用するものとしての昇華の観点は、肛門を理論化する思いがけない教科書的な例として我々を驚かせるかもしれない。しかし、非常に興味深い仕方でフロイトが提起するのは、貯蓄するものもまた失われ浪費されるということである。もし性源域に由来する興奮が抑圧を経験することなく・・・・・・・・・・・ 性格特徴に備給〔invest〕しうるのならば、かつての肛門の興奮であるところの肛門性格は追い払われ蕩尽するかもしれない*2フロイトはこう記述している。性欲動〔sexual drive〕のプールのようなものに対して「多数の成分や部分欲動〔component instinct〕によって」貢献がなされ、諸欲動〔drive〕は抑圧という障壁によって強要されることなく本来の目標を変える(SE9: 170, 『全集』9巻、281頁)。特定の目標を達成するのが不可能であることはもちろん抑圧に至らせうる一方、抑圧が生じる前に阻止〔block〕された性的エネルギーは他の関係のない目標にいわば逃避し、漏洩するのである。

 これらの新たに昇華された目標は、目標が制止〔inhibit〕された性的衝動〔impulse〕からどれほど「情報伝達(inform)」されるのか、あるいはどの程度解釈されうるのかについての疑問は未回答のままである。我々はもちろんここでメラニー・クラインの初期の著作で停滞した〔suspended〕、または余分なリビドー〔superfluous libido〕として理論化されたものを扱っているわけではない。それはいかなる特定の性欲動〔drive〕をも超過〔excess〕した性的エネルギーによるものであった。しかしまた我々が扱っているのは、抑圧された性欲動——その性欲動はそれを少なくとも部分的には満足させる自我の活動によって変装しようとする——の固着したエネルギーでもない。初期のクラインと同様に、フロイトが興味をもっていたのは、主体の過去の性欲動によってあるとしてもミニマルにのみ決定される性化〔sexualize〕する自我の活動を定義することのように思われる。この活動を説明するために、症状や反動形成の概念とは異なったある概念が明らかに必要とされ、昇華の概念は非特異的な類型の性的活動、つまり特定の行動ともはや結びついていない性的活動を記述するのに適しているかもしれない・・・・・・フロイトの性格形成に関する倹約的〔parsimonious〕な理論——その理論が説明的なモデルとして提供する複合体〔complex〕それ自体に解釈上還元できうる理論——は性格が形成されるプロセスのなかで昇華が曖昧に包含されていることによって蝕まれている。つまり、抑圧から逃れた昇華という概念において、理論それ自体が性的エネルギーや知的エネルギーの差異ある〔differential〕(非症状的な)反復を例証し説明する概念に昇華されるのである*3

 それゆえ昇華においては、内容〔content〕という判断基準は高度な自我の活動である性化〔sexualization〕を認識するためにはもはや使い物にならないであろう。ここで性〔sex〕から独立したセクシュアリティというこの奇妙な考え方に立ち戻りたい。さしあたり「性格と肛門性愛」におけるフロイトのためらいに関心を向けよう。そこでは彼は昇華は反動形成から区別されるべきかについてためらいがあった。昇華のプロセスとして性目標の逸脱を定義した文章の直後に、フロイトはこう記述している。「羞恥、嫌悪感、道徳といった」反動形成物は、性欲動の「以後の活動を阻むダムのように生」じる。肛門性愛はこうして「性目標に役に立たなく」なり、几帳面、倹約、強情に昇華される(SE9: 171, 『全集』9巻、281頁)。ここでは昇華は反動形成のプロセスの単なる最終段階であるように思われる。しかし、堰き止められた(「抑圧された」とも言うべきであろうか?)肛門性愛が症状として変装して表出されるのは、性欲動とかつて結びついていた興奮の非象徴的な・・・・・反復とはかなり異なっているように思える。実際にフロイトの論考の最後の文章はこの二つのプロセスの違いを明確にしている。「永続的な性格形成はもともとの欲動が変化することなく延長されたもの、あるいは・・・・、それらに対する反動形成かのいずれか・・・・である」(SE9: 175, 『全集』9巻、286頁)。

*1:(原注)The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, ed. James Strachey, 24 vols.(London: Hogarth Press, 1953-1974), 9:175. 『フロイト全集』全22巻、岩波書店、2006-2012年、9巻286頁。以後、Standard Edition(SE)とフロイト全集(『全集』)からの引用は、書籍の略称、巻数、頁数のみをテクストに記す。

*2:(原注)ジャン・ラプランシュは、レオナルド・ダ・ヴィンチに関するフロイトの研究において性的衝動の昇華は抑圧の前に生じるという見解を強調している。Laplanche, Problematiques Ⅲ のとりわけpp. 109-115を参照せよ。1964年のジャック・ラカンセミネールでのフロイトの「欲動と欲動運命」に関する議論のなかで、ラカンもまた「抑圧をともなわない」性欲動の満足として昇華を定義づけている(Le Seminaire, livre Ⅺ: Les Quatre Concepts fondamentaux de la psychanalyse (Paris: Editions du Seuil, 1973), p. 151.)。昇華とセクシュアリティのおそらく補完的な関係に関する議論についてはKurt Eissler, Leonardo da Vinci: Psychoanalytic Notes on the Enigma (New York: International Universities Press, 1961)を参照せよ。私はこの問題について『フロイト的身体』の第二章で踏み込んだ議論をしている(The Freudian Body: Psychoanalysis and Art (NewYork: Columbia University Press, 1986), chap. 2.)。

*3:(訳註)このあたりは読みづらいが、ベルサーニフロイトの性格形成に関する理論自体をその理論のなかで論証される「倹約〔parsimony〕」という言葉で形容して揶揄するレトリックを使っている。これと同じレトリックで、フロイトが理論化してきた症状形成や反動形成には含めることができないような、性欲動と特定の行動の結びつきがより曖昧な自我の活動を記述するために、昇華概念それ自体昇華されてできたものだと揶揄しているのだろうか。