レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(2/5)

 性格特徴は神経症の症状、反動形成、昇華と呼ばれるべきなのであろうか。そしてこれらのプロセスは互いにどの程度独立しているのだろうか。最も重要なのは、この問題に対するフロイトの流動する立場のなかで何が争点となっているのかである。性格特徴がいかにして形成されるのかという疑問に対する彼のためらいは、まるで昇華の概念の必要性が一般的に不確実なものであるということを言い表しているかのようである。精神分析の臨床的な概念は人間の性格や芸術といった臨床外の諸現象を説明するのに適当なのであろうか。フロイトのメタサイコロジーに関する未刊行の論文に昇華の議論が含まれていたかどうかは精神分析の歴史におけるよく知られた謎である。彼は1915年の春に五つのメタサイコロジーに関する論考を執筆した(スタンダード・エディションの14巻に全て所収されている[邦訳は『フロイト全集』14巻に全て所収])。さらに七つは同年の夏の間に書かれたようであるが、それらは決して刊行されることがなく、フロイトが破棄したものと思われる。失われた論考のうちの五つの主題については当時のフロイトの手紙のなかで言及されている。他の論考での言及を根拠に、その他の二つの論文のうちの一つの主題は昇華であったことが想定されている。フロイトは本当にその論考を破棄したのだろうか。もしそうであるとしたら、それはなぜなのか。

 その議論が受け入れられなかったことについて様々な形で想像してみたくなる。想定してみよう。まずメタサイコロジーの観点からは完全に独立した昇華の理論は不必要である、とフロイトは論考のなかで示していた。芸術作品は神経症の症状や夢と同じ心的機制によって製作される。それゆえ、昇華のプロセスの論文に対する文化の関係は『夢解釈』に対する夢の関係と同じである。フロイトの芸術解釈〔Kunstdeutung〕は精神分析物語論における一つの演習であったのかもしれない。あるいは、おそらく書かれなかった論考の二次的な書き直しを試しにしてみると、フロイトは症状や反動形成に伴う抑圧とはほとんど完全に異なったプロセスを詳しく述べていたのかもしれない。自我の文化的関心が幼児の性的関心に負っているものは何もないのかもしれない。昇華に関するこの種の論考は精神分析の力能の限界を必然的に定めてしまうのだが、それは二つの異なる方法のうちの一つによる。我々は、新たな心身二元論が文化的獲得のある水準で復権されるこうした脱性化のメカニズムを説明することになるか、あるいは抑圧された性的欲望に負っているものが何もない性化された振る舞いのある種の様式を説明することになるかのいずれかである。この後者の説明は文化と身体的強度との間の本質的な不連続性の神話を破壊することに膨大な関心が向けられている。それと同時に、私が文化的関心の非特異的な性愛エロース 化〔eroticize〕と呼んだものを論証して、フロイトはあらゆる精神分析的な論証の解釈を導出するのだろう。彼は精神分析的には分析不可能な関心が生み出されるプロセスを説明していたのだろう。

 昇華に関する二つの異なる試みを再構築する中で私が述べたあらゆることは、実際少なくとも、フロイトによって提起されている——もちろん昇華に関する論考の中ではないが。私たちはすでに「性格と肛門性愛」で大雑把に提起されたこれらの主張のうちのいくつかを見てきた。そして我々はそれらの主張のさらなる詳述を、もちろんその主張に対する反動をも、ナルシシズムに関するフロイトの1914年の著作から見出していきたい。しかし重要なのは、これらの様々な立場の間の矛盾にはっきりと立ち向かった人は誰もいないことである。性的なものとおそらく非性的なものの関係を解決することができなかったことの戦略的利点はなんなのであろうか。思慮を限りなく深めていくと、フロイトコーパスから我々の二つの試みのうち最初のものが排除されることが想像できる。精神分析のパブリックイメージにとって、文化という神聖不可侵なもの〔sacred cow〕に関する還元主義的な立場よりも最悪なことはなかった。のちの世代の精神分析の批評家たちによる敬虔な否定を予期した措置をとって、フロイトレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を停止された発達の歴史的な症例として、また分析的解釈を必要とする症例として分析する中で、レオナルド・ダ・ヴィンチ神経症ではないと我々に保証する。しかしそのような非一貫性は、精神分析の「イメージ」にとって、その非一貫性を消し去り、芸術は神経症の症状と同じメカニズムに従っていると主張するよりかはましである。実際、フロイト以来のあらゆる精神分析批評は芸術の退行的性質を支持する主張を隠蔽しようとしている*1。我々の二つ目の試みはしかし、一つ目の試みよりも一層受け入れ難いかもしれない。目下危ぶまれるのは、精神分析が狭い専門分野のなかで概念化されることである。非性的なものとしての文化であれ、あるいは精神分析的には解釈不可能な性的なものの変形としての文化であれ、それを理論化するにあたって、フロイトは彼の新たな学問分野をただ医学の新たな領域として定義するだろう。精神分析は人間の行動の病因的なものに差し控えられ、残りは手付かずのままである。それゆえ、フロイトは彼自身にとってはるかに興味深く必然的な展望となりうるものを破壊した。それは単なる医学的な解釈学または治療上の解釈学を超えた、文化的な解釈学としての精神分析である。

 しかしながら私が最も興味を引かれるのはいくらか奇妙なある可能性である。私が主張したいのは、昇華に関する我々の仮説上の二番目の試みにおける別の種類の危険性、別の種類の受容不可能性である。昇華されたセクシュアリティが、神経症的なセクシュアリティの概念とその概念を支持する性的なものの定義の両方に疑問を呈するかもしれないという可能性を考えてみよう。私が精神分析的には解釈不可能な性的なものの変形と性急に呼んだものを支持する試論は、精神分析の解釈の範囲を限定する代わりに、ある承認し難い方法で精神分析の力能を全体化するかもしれない。精神分析で最も受け入れ難いのは、かねてから一般的にそう思われているのだが、性的なものの定義である。しかし、今や我々はその定義がフロイト自身にとっても受け入れがたかったことを考えねばならない。昇華に関する論考を刊行しなかったこと(もしかしたら書くことさえもしなかったこと)は、したがって、力の望まない拡大を拒絶したと捉えられるだろう。昇華は精神分析の限界にある不必要な概念ではない。むしろ、その概念は、文化の哲学であるという精神分析の主張を正当化することによって、救済〔redemption〕の文化——失敗した経験を作り変えたり修復するものとしての芸術の概念——において、その緊張した共謀を強化するか脅かすかのいずれかになりうる。芸術を症状のように定義する昇華理論はそれ自体、セクシュアリティと文化についてのラディカルな見方——より正確に言うと、償い的〔reparative〕でも救済的〔redemptive〕でもない性愛エロース化という芸術の見方——に対する精神分析の不安定な関係の症状と見做されるに違いない。したがって私はフロイトが非症候学的な昇華理論から態度を変える過程を症候学的に分析していきたい。要するに、性化された生産物の類型としての文化という彼の見解において、何が抑圧されなければならないのだろうか。

*1:(原注)その試みや主張は、芸術と一次過程の関係についての思弁という文脈においてしばしば興味深い結論でもって頻繁になされてきた。私が考えているのは、例えばエルンスト・クリスの制御〔control〕・統制〔regulate〕された退行という概念である。そこでは自我は一次過程によって制圧される代わりに、一次過程を創造的に利用する。 彼の著作、Psychoanalyse Explorations in Art (New York: Schocken, 1952)を参照せよ。アントン・エーレンツヴァイクはクリスよりもさらに進み、「芸術における一次過程の非常に構造的な役割」を主張している。エーレンツヴァイクにとって、「クリスの概念に欠けていたのは(中略)創造性は一次過程のために退行を制御するだけではなく、一次過程自体の作業を制御するという洞察である」The Hidden Order of Art : A Study in the Psychology of Artistic Imagination (Berkeley: University of California Press, 1967), pp. 31, 261-262。最後に、ジャン=フランソワ・リオタールは極めて興味を掻き立てる主張をしている。彼は芸術における無意識のプロセスの二重の反転〔double renversement〕と彼が呼ぶものを主張する。芸術がただ無意識的欲望の内容を繰り返すだけである限り、それは症状のように読解することができる。リオタールにとって(そして我々にとっても)より興味深いのは、芸術における欲望の非現実化〔nonrealization of desire〕である。芸術作品は、幻覚的内容よりもむしろ欲望の運動を繰り返すことによって、欲望が構成されたいかなる決定的な意味にも落ち着かないようにする。それはまるで無意識的欲望がそれ自身の特徴的な操作様式の対象となることで、特定の表象を欠いているようである。Jean-François Lyotard, Discours, figure(Paris: Editions Klincksieck, 1971)と"Oedipe juif," Dérive à partir de Marx et Freud(Paris: Union générale d'éditions, 1973)を参照せよ。
 精神分析のコミュニティのうちで、もちろん芸術に関する議論は多数なされてきた。数年前のAmerican Imago誌のある号は「天才、精神分析と創造性」(1967年春—夏)と題するものであり、くだんの問題に対する繊細で見事な考え方を示している。それはフロイト的な美学の説明を試みる精神分析家にとって普遍的に重要であると思えるものであった。この号はクルト・アイズラーのレオナルド・ダ・ヴィンチとゴーチエに関する著作に影響を受けたもので、以下のような疑問に活発な議論を差し出している。ナルシシズムは芸術的創作をもたらす償いのエネルギーの背後にある成熟する力であるのか?創作の動機の強度は攻撃性やリビドーの派生物、あるいはたいてい「脱攻撃化〔deaggressivization〕」や「脱リビドー化〔delibidinization〕」に由来するのか?創造的なパーソナリティの退行は自我の貢献なのか、あるいは自我の回復や自我の生存をさえ目指しているのか?我々は昇華を創造性と同義であると考えるべきなのか?芸術活動は「自律的〔autonomous〕」であるのか、すなわち原初的な葛藤の領域から切り離されているのか?あるいは創造の過程全体は、それを絶えずはぐくむ根底にある葛藤と一緒になって進展するものなのか?これらの疑問のうちいくつかは確かに注目するに値するのだが、精神分析家(とりわけアメリカの精神分析家)がこれまでむけてきた注目はつねに知的な観点で単純すぎるように思われる。それはおそらくこれらの大御所の精神分析家たちがおそらくカント以来の美学理論と文学批判のほとんど全てに対して無関心であったことに由来するのかもしれない。芸術に関する熟達した精神分析的な関心の最高水準はもちろんジャック・ラカンの著作にある。マルコム・ボウイは近年精神分析の真理のために文学を使用するラカンアンビバレントで問題含みな試みをうまく説明している。ボウイは「ラカンが取り扱う文学の素材に示される賛美、羨望、攻撃性のリズム」について述べている。ボウイのFreud, Proust and Lacan: Theory as Fiction (Cambridge: Cambridge University Press, 1987), p. 158を参照せよ。
 一次ナルシシズムについてのフロイト派の仮説に関する思弁に影響を受けた芸術への理論的なアプローチを概略する私の試み(とりわけ第三章のボードレールニーチェについての議論を参照せよ)において、ハインツ・コフートは、彼のナルシシズムに関する著作と芸術に対する関心を考慮すると、期待のできる参照先のように思われるが、残念ながら彼は精神分析につねのクリシェを使うことにとどまっている。「音楽の心理学的機能についての観察〔Observations on the Psychological Function of Music〕」と題された論考のなかで、彼は「前性器的リビドーの攻撃的な緊張を緩和する音楽活動の心的経済の有効性」について述べている。そしてコフートはセラピストのいない統合失調症者にとって芸術は有用な代理となると提起している。なぜなら、よく知られているように、芸術は「制御・制限された退行」を可能にするからである。The Serch for the Self: Selected Writing of Heintz Kohut, 1950-1978, vol. 1, ed. Paul H. Ornstein (New York: International Universities Press, 1978), pp. 249-251を参照せよ。

レオ・ベルサーニ「性愛の引き受け——フロイトにおけるナルシシズムと昇華」試訳(1/5)

本稿はLeo Bersani, "Erotic Assumption: Narcissism and sublimation in Freud," in Leo Bersani, Culture of Redemption, Harvard University Press, 1990, pp, 29-46より、五部構成の論文の第一部の試訳です。個人の非営利的な研究目的のために訳文を公開しておりますが、なにか問題がありましたらご連絡ください。

 

 ホモセクシュアル肛門性格をもたない。これはフロイトが1908年に「性格と肛門性愛」のなかで提起した、厳密に論理的な性格の系譜学の結論である。フロイト自身は確かにいくらかよりためらいがちにこの結論を提示している。彼は次のように書いている。フロイトがまさに記述したような特定の性格特徴と肛門性愛との関係に「何らかの現実的根拠」があるとするならば、したがって「例えばいくらかのホモセクシュアルの人々ように肛門領域の性源的特徴を成人でも保持している人々のなかに「肛門性格」の程度の際立ったものを見出すことは期待できないであろう。私が間違いを犯していない限り、経験による証言は概してこの推論に一致する」(SE9: 175, 『全集』9巻、286頁)*1肛門性格の特徴の強度は個人の性生活における肛門の快の脆弱性、あるいは肛門の快の欠如にさえ直接的に相関する。トイレット・トレーニングに対して反抗的、または特異な反応をすることで「肛門領域の性源性」——性源性〔etorogenicity〕はフロイトが示唆するように遺伝的に決定されているのかもしれない——が並外れて強いことを指し示す子供は、成長するにつれて快の特権的な地帯としての肛門領域を失う。しかし彼らは「几帳面〔orderliness〕、倹約〔parsimony〕、強情〔obstinacy〕という性格特徴」に発達する。それは「肛門性愛の昇華の最初にして最も恒常的な結果として考えられる」(SE9: 170-171, 『全集』9巻、281-282頁)。

 「性格と肛門性愛」はフロイトの最もスキャンダラスな仕事のうちの一つであった。今日ではこの論考は精神分析の歴史における衝撃的で画期的な発見としてよりも、フロイト的還元主義の主要な事例として考えられている。しかしこの論考のいくらか肌理の粗いこの知的な主張が再定式化するのは、非性的なもの〔nonsexual〕が存在するのかという精神分析の最も原初的で秩序を乱す疑問である。そしてもしそれが(フロイトが一貫して主張するように)存在するのだとしたら、それは正確にはどこで発生するのだろうか。周知の通り、性的な快はそもそも性的なものの氷山の一角にすぎない。精神分析が我々に教えるのは、夢、ジョーク、日常的な言葉の事故、性格特徴、遊び、芸術作品を、様々な性的興奮の変装した表出として読むことである。フロイトにとってホモセクシュアルの肛門の感性は肛門性格に不要である。後者(几帳面、倹約、強情という三つ組)は、特定の身体的快楽〔bodily pleasures〕を身体から逸らすことでもあり、また同時にそれら[=身体的快楽]の永続性の保証を合法化するものでもある。あらゆる性的な快のように、肛門性〔anality〕はその名を与える領域に制限されているわけではない。精神分析にとって、セクシュアリティは心的感染症〔psychic infection〕のある特定の類型なのである。

 フロイト主義〔Freudianism〕はおそらく近代の考究のうち最も急進的なものであり、我々の文明の心身二元論に魅せられた状態を破壊(そして説明)して、身体的強度の性格学的・文化的な移住〔migration〕と呼ばれるであろうものを位置付ける。セクシュアリティはどのようにして繰り返される〔repeat〕のだろうか。性的なもの〔sexual〕のこの波及を位置付けることはセクシュアリティ自体が症状のように〔symptomatically〕再生産される限り問題のないものである。フロイト的地図の製作者はある特別な能力——症候学的解釈〔symptomatological hermeneutics〕の熟練者の能力——を必要とするのだが、一度そのような能力を獲得すると、その人は非性的なもの〔nonsexual〕から性的なもの〔sexual〕を読み返すことすら容易にできるようになる。これはまさにフロイトが「性格と肛門性愛」で行ったことであり、几帳面、倹約、強情は遡ると、大便失禁、腸閉塞、そして「排出した糞便を用いたあらゆる種類の節度のない行為」といった幼児期の肛門の快に行き着く(SE9: 170, 『全集』9巻、280頁)。肛門性格は「不潔なもの、秩序を乱すもの、身体の一部でないはずのものへの興味に対する反動形成の印象をまさに与える」(SE9: 172, 9巻、282頁)。禁じられた快は性格特徴において今や消極的〔negatively〕に表象される——否定されながらも部分的に満足をもたらす。糞便への興味は清潔への強迫観念となる。我々は本質的に神経症の構造であるものを捉えているだろう。それは抑圧された衝動〔impulse〕とこの衝動に対する防衛でもあり表出でもある意識的な行動という要素である。肛門性格特徴はこうして、性格神経症を構成するものとして、すなわち性的発達の肛門段階で行き詰まり停止されている主体の存在に対する、重度の構造的な反応として考えられるだろう。几帳面、倹約、強情に備給〔invest〕したリビドーエネルギーは肛門的〔anally〕に固着したエネルギーである。

 固着しているが、自由に流れもするのである。「性格と肛門性愛」で明白に強調していることが求心的であるために(フロイトの記述するあらゆる特徴と活動は肛門に帰っていく)、我々はこの論考の遠心的な引き〔pull〕を見逃しているかもしれない。というのも、フロイトが少なくとも暗に主張しているのは、肛門性愛として固着した性欲動でさえもその欲動の満足をもたらすような対象や活動に対して比較的無関心だということである。より簡潔に言うと、肛門は肛門性愛に対して無関係となりうるということである。『性理論のための三篇』の中心的な仮説にここでの残響を確認できるのだが、それはまるでセクシュアリティにおいてはほとんどすべてのものが目的を果たす〔do the job〕ということである。肛門性愛と同じように特定のある性欲動は、灰皿を空にすることを強迫的に繰り返したり、文献目録を編集することでなんとかやりくりするのであろう。それらの性欲動は、こうした活動に対して、糞便を滞留・排出する快を特徴付けるようなものと似ていないわけではない感覚——抽象的感覚と呼ばれうるもの、つまり保持・放出する器官の伴わない滞留・排出する快——を生産することを強制する。要するに、肛門性格は肛門性愛の本質のようなものを表現するのであろう。それはプラトンイデアとさえ呼ばれるかもしれない。

 おそらくこの抽象度でのみ肛門性格は撞着〔oxymoron〕を免れる。いかなる場合でも、肛門性愛の欲動の可塑性、すなわち様々な性格特徴や活動にほとんど無差別的に利用可能であることは、固着した性的エネルギーの概念が少なくとも非常に問題含みであることを提起している。肛門欲動〔drive〕の流動性は肛門欲動として・・・ の同一性を問題のあるものとする。あるいは別様に言うと、性格特徴の性化〔sexualization〕は、性格特徴(几帳面はもはや単に秩序を愛することとしては定義されないだろう)に関してのみならず、その源泉であると想定された欲動に関しても、定義付けられた安定性を崩壊させる。「性格と肛門性愛」のなかで、フロイトは性化の過程は内在的に読解の可能性を危機に陥れるとはもちろん決して言っていない。実際に、この論考はまさにその反対のことを主張していることで有名かつ当初は悪名高かった。例えば、我々は糞便を滞留する快の反復として几帳面さを読むように教えられるのだ。それにもかかわらず、フロイトは性格形成を(肛門性格の形成までも)症状形成と同等のものとすることもまたためらった。その結果として提起されるのは、この論考で彼が提案しているように見える主張と比して、そのような特徴は特定の性欲動への説明をあまり可能にしていないということである。

 『性理論のための三篇』における身体の「性源域」(「性器、口唇、肛門、尿道」)に関するより早期の議論に言及しながら、フロイトはこう書いている。「これらの身体部分からやって来る興奮量は同じ運命〔vicissitude〕を辿るわけではなく、それらすべての運命〔fate〕も人生のあらゆる段階で同じわけではない。一般的に言って、それらの一部のみが性生活に利用されるのである。他の部分は性目標から逸らされ、別のものに向け変えられる——「昇華」という名に値するプロセスである」(SE9: 171, 『全集』9巻、281頁)。論考を通してフロイトは欲動〔instinct〕の目標の変化としての昇華のプロセスという定義に頻繁に立ち戻っている。性格と文化は「実用性のない〔uncerviceable〕」セクシュアリティによって燃料補給されているようである。それらは構成的に苦肉の策・・・・ 〔a pis aller〕であり、正常な性的発達のうちに準備されていて拭い去ることのできない衝動のはけ口である。性器のヘゲモニーを脅かす目標をもつ前性器期のリビドーの多量は他の何かに変えられなければならず、そしてリビドー経済の観点からはその他の何かが几帳面という性格特徴であっても読書という活動であっても、それは大した違いではないのである。

 このようにして文化的に高等な目標は性的に低級な目標の代理〔representation〕に基づいているように思われる。口唇と肛門のエネルギーをやぶさかに貯蓄して再利用するものとしての昇華の観点は、肛門を理論化する思いがけない教科書的な例として我々を驚かせるかもしれない。しかし、非常に興味深い仕方でフロイトが提起するのは、貯蓄するものもまた失われ浪費されるということである。もし性源域に由来する興奮が抑圧を経験することなく・・・・・・・・・・・ 性格特徴に備給〔invest〕しうるのならば、かつての肛門の興奮であるところの肛門性格は追い払われ蕩尽するかもしれない*2フロイトはこう記述している。性欲動〔sexual drive〕のプールのようなものに対して「多数の成分や部分欲動〔component instinct〕によって」貢献がなされ、諸欲動〔drive〕は抑圧という障壁によって強要されることなく本来の目標を変える(SE9: 170, 『全集』9巻、281頁)。特定の目標を達成するのが不可能であることはもちろん抑圧に至らせうる一方、抑圧が生じる前に阻止〔block〕された性的エネルギーは他の関係のない目標にいわば逃避し、漏洩するのである。

 これらの新たに昇華された目標は、目標が制止〔inhibit〕された性的衝動〔impulse〕からどれほど「情報伝達(inform)」されるのか、あるいはどの程度解釈されうるのかについての疑問は未回答のままである。我々はもちろんここでメラニー・クラインの初期の著作で停滞した〔suspended〕、または余分なリビドー〔superfluous libido〕として理論化されたものを扱っているわけではない。それはいかなる特定の性欲動〔drive〕をも超過〔excess〕した性的エネルギーによるものであった。しかしまた我々が扱っているのは、抑圧された性欲動——その性欲動はそれを少なくとも部分的には満足させる自我の活動によって変装しようとする——の固着したエネルギーでもない。初期のクラインと同様に、フロイトが興味をもっていたのは、主体の過去の性欲動によってあるとしてもミニマルにのみ決定される性化〔sexualize〕する自我の活動を定義することのように思われる。この活動を説明するために、症状や反動形成の概念とは異なったある概念が明らかに必要とされ、昇華の概念は非特異的な類型の性的活動、つまり特定の行動ともはや結びついていない性的活動を記述するのに適しているかもしれない・・・・・・フロイトの性格形成に関する倹約的〔parsimonious〕な理論——その理論が説明的なモデルとして提供する複合体〔complex〕それ自体に解釈上還元できうる理論——は性格が形成されるプロセスのなかで昇華が曖昧に包含されていることによって蝕まれている。つまり、抑圧から逃れた昇華という概念において、理論それ自体が性的エネルギーや知的エネルギーの差異ある〔differential〕(非症状的な)反復を例証し説明する概念に昇華されるのである*3

 それゆえ昇華においては、内容〔content〕という判断基準は高度な自我の活動である性化〔sexualization〕を認識するためにはもはや使い物にならないであろう。ここで性〔sex〕から独立したセクシュアリティというこの奇妙な考え方に立ち戻りたい。さしあたり「性格と肛門性愛」におけるフロイトのためらいに関心を向けよう。そこでは彼は昇華は反動形成から区別されるべきかについてためらいがあった。昇華のプロセスとして性目標の逸脱を定義した文章の直後に、フロイトはこう記述している。「羞恥、嫌悪感、道徳といった」反動形成物は、性欲動の「以後の活動を阻むダムのように生」じる。肛門性愛はこうして「性目標に役に立たなく」なり、几帳面、倹約、強情に昇華される(SE9: 171, 『全集』9巻、281頁)。ここでは昇華は反動形成のプロセスの単なる最終段階であるように思われる。しかし、堰き止められた(「抑圧された」とも言うべきであろうか?)肛門性愛が症状として変装して表出されるのは、性欲動とかつて結びついていた興奮の非象徴的な・・・・・反復とはかなり異なっているように思える。実際にフロイトの論考の最後の文章はこの二つのプロセスの違いを明確にしている。「永続的な性格形成はもともとの欲動が変化することなく延長されたもの、あるいは・・・・、それらに対する反動形成かのいずれか・・・・である」(SE9: 175, 『全集』9巻、286頁)。

*1:(原注)The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, ed. James Strachey, 24 vols.(London: Hogarth Press, 1953-1974), 9:175. 『フロイト全集』全22巻、岩波書店、2006-2012年、9巻286頁。以後、Standard Edition(SE)とフロイト全集(『全集』)からの引用は、書籍の略称、巻数、頁数のみをテクストに記す。

*2:(原注)ジャン・ラプランシュは、レオナルド・ダ・ヴィンチに関するフロイトの研究において性的衝動の昇華は抑圧の前に生じるという見解を強調している。Laplanche, Problematiques Ⅲ のとりわけpp. 109-115を参照せよ。1964年のジャック・ラカンセミネールでのフロイトの「欲動と欲動運命」に関する議論のなかで、ラカンもまた「抑圧をともなわない」性欲動の満足として昇華を定義づけている(Le Seminaire, livre Ⅺ: Les Quatre Concepts fondamentaux de la psychanalyse (Paris: Editions du Seuil, 1973), p. 151.)。昇華とセクシュアリティのおそらく補完的な関係に関する議論についてはKurt Eissler, Leonardo da Vinci: Psychoanalytic Notes on the Enigma (New York: International Universities Press, 1961)を参照せよ。私はこの問題について『フロイト的身体』の第二章で踏み込んだ議論をしている(The Freudian Body: Psychoanalysis and Art (NewYork: Columbia University Press, 1986), chap. 2.)。

*3:(訳註)このあたりは読みづらいが、ベルサーニフロイトの性格形成に関する理論自体をその理論のなかで論証される「倹約〔parsimony〕」という言葉で形容して揶揄するレトリックを使っている。これと同じレトリックで、フロイトが理論化してきた症状形成や反動形成には含めることができないような、性欲動と特定の行動の結びつきがより曖昧な自我の活動を記述するために、昇華概念それ自体昇華されてできたものだと揶揄しているのだろうか。